2月6日 深夜
真冬の寒さに震えながら マンションの鍵を開けて中に入ると 玄関には男物の靴が
きちんと揃えられ 美月のスリッパもすぐ履けるように並べて置かれていた。
仕事で疲れていたはずなのに 思わずふふっと笑ってしまった美月は
何て自分は単純なんだろうと思ってしまう。
静かに部屋のドアを開けると明かりはついたままだった。
音を立てないように奥のベッドに近づき そっと覗き込むと
航平の寝顔が美月を迎えてくれた。
眼鏡をかけたまま すやすやと眠っている航平。
航平ったら、きっとわたしを待ってるうちに眠ってしまったのね…
美月は まるで春の陽だまりに包まれたような温もりを感じ、微笑んだ。
安らかな眠りを妨げないように 美月はゆっくりと手を伸ばし
そーっと航平の眼鏡を外してあげる。
うわあ…… …
思わず声をあげそうになった美月は 慌てて自分の口を押さえた。
純真無垢で、あどけなくて、可愛い天使の寝顔……
今度は心拍数の上がった胸に手を当てると
美月は顔を近づけて航平の寝顔をまじまじと見た。
かっ、かわいいーーー!
…きっと、こんな風に母親が子供の寝顔を見て感激するのよね…
そうそう、夜遅く帰宅した父親とかも…
…って、わたしは親じゃないでしょ!
美月は首をぶんぶんと振って否定した。
…いけない、いけない
いくら 5歳年下だからといって航平はわたしの夫…うっ、恥ずかしいーーー!
…じゃなくて、いえ そうなんだから
航平の寝顔に見とれてどうするのーーー?
美月は一人でノリ突っ込みをし、一人で恥ずかしがっていた。
乳白色のお湯が溢れそうなバスタブに浸かりながら 美月は体を伸ばし
気持ち良さそうにゆっくりと息を吐いた。
今夜みたいに凍えそうな寒い夜は やっぱりお風呂と航平の笑顔よね…
また、航平の寝顔を思い出した美月は くすくす笑い出した。
2ヶ月前、美月と航平は結婚した。
教会で厳かな結婚式を挙げ、近くのレストランでのウェディングパーティー
そして、真冬の東京から常夏のハワイへハネムーン。
楽しくて、甘くて、賑やかで、ほんとうに幸せなウェディングだった。
航平はいつも優しく…以前からそうだったが 結婚してからはもっと美月のことを
まるで宝物のように大切に大事に扱った。
美月と結婚したことが嬉しくてたまらないという様子は誰が見てもわかるほど
航平はいつも幸せそうに美月に笑いかけていたし、美月はそんな航平を見ると
愛おしくて 思わず航平を抱きしめていた。
美月の友人の麻美はそんな二人を見て呆れていたが 美月は澄ました顔で
だって新婚なんだもの、いいでしょ?と言ってのけた。
今はまだ航平は京都にいるので二人は別居しているが こうして週末になると
このマンションで一緒に過ごしていた。
そして、4月になって航平が東京に戻って来たら そのままここで
暮らしていくことに決めていた。
もうすぐ二人の新生活がスタートするのだ。
ポチャ…… 両手ですくったお湯が手の中でゆらゆらと揺れて
それが指の隙間からこぼれ落ちる。
…だけど、このわたしがこんな風になるなんて…自分でも信じられない…
航平と結婚して…すごく幸せだわ …なーんてね…
美月はまた頬を染めると そのままブクブクとバスタブの中に沈んでいった……。
できるだけそっとベッドの中に入ったつもりだったのに 隣に滑り込んだ美月に
気づいて 航平はもぞもぞっと動き出し 無意識のうちに手を伸ばしてきた。
そして、いつものように美月の体を引き寄せ、両手で抱きしめた。
「あ…ん、ごめん 航平、起こしちゃった?」
美月は一応謝るが、すぐに嬉しそうに甘えながら航平の胸の中にすり寄っていく。
「…みつ…きちゃ…ん…?」
まだ寝ぼけている航平は目を閉じたまま呟き また美月を胸の中に包み込んだ。
「うん…」
美月も気持ち良さそうに目を閉じると 航平の首筋に額をくっつけた。
やわらかな美月の体に触れて 航平がうっすらと目を開ける。
「…おかえり 美月ちゃん……」
「ただいま」
「…寒かった?」
「うん、すごく寒かった」
「…温めてあげる」
「うん」
航平はくすっと笑い、また美月を抱きしめる。
ふわりと軽やかに航平の胸に抱かれて、ぴったりと体を寄せ合うと
ぽかぽかとした温もりが美月の全身を包み込んでいく。
「…あったかくて気持ちいいわ…」
「うん…」
「せっかくの週末なのに 遅くなってごめんね」
「仕事だから仕方ないよ。疲れたでしょ?」
「うん、すごく疲れた…。
作家の先生は我儘だし、去年入った新人はデータを消しちゃうし
編集長は無理難題を押し付けるし…」
「ああ、美月ちゃんはかわいそうだな…」
「そうよ、もう 大変なの」
「僕が慰めてあげるから頑張って」
航平はそう言うと美月の頭を何度も撫でた後、前髪を上げて額にそっとキスをした。
航平のやわらかな唇の感触に美月はくすぐったそうに笑い出した。
「そうね、航平が励ましてくれるなら もう少し頑張ろうかな」
「うん」
「来週は二人で温泉旅行だものね。
ちゃんと休みが取れるように 仕事を終わらせなくちゃね」
「そうそう、偉いな 美月ちゃんは」
「でしょ?」
二人は顔を見合わせると同時にくすくすと笑い出した。
本当は美月にとっては大したことのない仕事上の愚痴だったが
それでも、ちゃんと話を聞いて慰めてくれる航平の存在は大きなものだった。
じゃあ、ゆっくり眠って…という航平の言葉に美月は首を傾げた。
「…キスはおでこだけ?」
悪戯っぽく笑いかける美月に航平はクスクス笑いながら
今度はその白い頬にチュッとキスをした。
「…そこじゃなくて…」
まだ不満げな美月の様子を見て 航平は困ったように笑う。
「…これ以上したら 眠れなくなっちゃうよ」
「………」
「もしかして… 誘ってるの?」
航平の言葉に美月はふふっと笑い、目を輝かせた。
美月ちゃんが疲れてると思って我慢してたのに……
航平ったら 我慢なんてしなくていいの…
じゃあ そうする……
美月の甘い言葉と潤んだ瞳に誘惑された航平は体を起こすと
今度は美月の願ってやまない場所に唇を重ねてきた。
美月はうっとりと目を閉じて 航平の背中に手を回して抱きしめた……。
2月13日 午後
「…これで離婚なんてことになったら、編集長のせいですからね!」
美月は足早に歩きながら携帯電話に向かって叫んだ。
その剣幕に道行く人々が驚いて美月を見ている。
「大袈裟じゃないですよ! 先週だって深夜帰宅だったし
今日はこれから旅行に行くはずだったんですから!
はい? …ええ、わかってます。
だからこうして向かってるんじゃないですか!
わかりました!何とか間に合わせますから!」
美月は携帯を切ると今度は駆け出した。
もう、もう、もうーーー!
また遅れちゃうじゃない!!!
今頃、航平は箱根に着く頃?
ああ、ごめんね航平ーーー!
急いで行くから待っててね!!!
美月はなりふり構わず会社に向かって走っていた。
『…もしもし、美月ちゃん? うん、もう旅館に着いたよ。
部屋もすごく贅沢な感じで…露天風呂付きなんだ。
すごい所を紹介してくれたんだね。
…うん?大丈夫だよ。これからちょっと外をブラついてくるから
美月ちゃん? 慌てなくていいから気をつけて来て…
うん、待ってるから。 …後で一緒に温泉に入ろうね。
あはは…何、照れてるの? ……』
航平の明るい笑い声が耳に残っている。
一緒に露天風呂? …航平ったら、恥ずかしいじゃないの…
…でも…それもいいかも…
美月は思わず口元がほころんでしまいそうになるのを堪えた。
東京駅から新幹線に乗った美月は、やっと一息つくと窓から外の景色を眺めた。
本当は 今頃には航平と一緒に旅館でのんびりしてたはずだったのに…
「…編集長もだけど、みんなでわたしの新婚生活を邪魔してるとしか思えない!」
美月はぐっと拳を握り締めると、ぶつぶつと文句を言った。
“結婚祝いにね。親戚が営んでる旅館だから気にしないで”と
箱根の温泉旅館を美月に紹介してくれたのは作家の夏目小枝子だった。
2月に入って、やっと休みが取れることになった美月は
京都から来る航平と小田原で待ち合わせて箱根に向かう予定だったのだが
編集の方で手違いがあって、美月は急遽 出勤したのだった。
…何だか 前にもこんなことがあったわね
航平、いつも待たせてばかりいてごめんね…
美月はため息まじりに呟いた。
旅館に戻って来た航平は フロントで美月が到着したことを聞いて
嬉しそうに部屋の扉を開けたが そこに美月の姿はなかった。
美月ちゃん? 航平は客室から外に続いている扉を開けると
贅沢な檜造りの露天風呂に入っている美月の白い背中が目に飛び込んできた。
「美月ちゃん!」
「………」
だが、航平が呼んでも そのほっそりとした背中は身動きひとつしない。
「美月ちゃん?」
「………」
「どうしたの?」
「……」
「なんで先に入っちゃったの? 一緒に入ろうって言ったのに…」
「…出てって」
「え?」
「一人で入るから…航平は部屋に行ってて」
「どうしたの? 何かあった?」
「何もないわ」
「じゃあ、どうしてこっちを見ないの? 何か怒ってる?」
「怒ってないわ」
「美月ちゃん…」
戸惑う航平の気配を感じた美月は 背中を向けたままぽつりと呟いた。
「…航平の鞄の中にたくさんチョコレートが入ってた…」
「え?」
「…荷物を整理してあげようと思って… わたし、来るの遅れたし
一応、これでも奥さんだから… そしたら…」
「それで怒ってるの? あれはただの義理チョコだよ」
「わかってないわ、航平は… ただの義理であんな高級なチョコを用意したりしないわ。
大体、どうして旅行先にまで持ってくるの?」
「…早く美月ちゃんに会いたかったから」
「え?」
「部屋に戻らないで 大学から直接ここに来たんだ。
1分でも早く美月ちゃんに会いたくて…
だからチョコレートも貰ってそのまま…」
「…航平…」
「…ごめん、気がつかなくて…僕が悪かったよ …まだ怒ってる?」
「………」
「美月ちゃん…?」
心配そうに声を声をかける航平に黙っていた美月だったが、しばらくして
くすくす笑い出した。
「美月ちゃん?」
お湯の中で美月は振り向くと裸の胸を両手で覆いながら明るく言った。
「ばかね、航平は… わたしがこんなことで怒るわけないでしょ?」
「え?」
「結婚したのに、あんなにたくさんチョコをもらって ちょっと悔しかったから
拗ねたふりをしただけよ」
「ホントに?」
「うん、航平ったらものすごく焦ってて…かわいかったーーー!」
「かわいいって言うなーーー!」
「そのムキになるところが可愛いの」
「………」
「航平?」
「…美月ちゃん、気づいてる?」
「え?」
「さっきからずっと美月ちゃんは裸なんだよ。
それって、僕を誘ってるの?」
「え?あ、あら、違うわよ!」
「僕も一緒に入るから待ってて」
「ちょっ、ちょっと航平! わたしもう出るからーーー!」
「僕を騙した罰だよ、覚悟して、美月ちゃん!」
「覚悟って…なにーーー???」
ふわふわと湯気がたちこめる中 今度は美月の叫び声が響き渡った。
…って抵抗しても、結局こうなるのよね…
ゆらゆらとお湯が波立つ中、航平の膝の上に乗せられた美月は後ろから
抱きしめられた。
髪を上げた真っ白なうなじに航平の唇が押し当てられると
美月はくすぐったそうに体をよじり小さく笑った。
「子供の頃、一緒にお風呂に入ったこと覚えてる?」
「うん。 美月ちゃんはまだ小学生だった」
「航平は幼稚園児だったね」
「……」
「まさか大人になって また一緒にお風呂に入るなんて思わなかったわ」
「そうだね」
「あの時は航平もまだちっちゃくて…」
「何が?」
「しっ、身長に決まってるでしょ?」
「…何、焦ってるの?」
「…ばか…」
「あはは… 僕も大人になったでしょ?」
「え?そうかしら?
…わたしから見れば まだまだお子ちゃまだけど?」
「言ったな」
航平は美月の体を抱き上げると 今度は向かい合わせで膝の上に座らせた。
航平の熱っぽい瞳が戸惑う美月の顔を覗き込んでいる。
「…航平…」
「僕はもう5歳の子供じゃないよ…」
湯気でしっとりと濡れた航平の唇が美月の唇と重なる。
ほんわりと温かくてやわらかなキスが何度も繰り返される。
…お湯と航平の唇に包まれて、身も心もとろとろに溶けてしまいそう…
「…こうへ…い…」 …わたし…のぼせそう…
思わずこぼれてしまった吐息とともに 美月の瞳も声も体も甘くしっとりと濡れている。
そんな美月を見て 航平は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
…でも…その無邪気な笑顔は ずっと同じね……
美月はうっとりと航平を見つめて微笑むと これ以上 お湯にも航平にも溺れないように
その綺麗な首に手を伸ばし、温かな胸にしっかりとつかまった……。
翌日 2月14日
閑静な温泉旅館に美月の悲鳴が響き渡る。
「美月ちゃん!!! どうしたの?」
「どうしよう、航平ーーー! チョコ、持ってくるの忘れた!!!」
「え?」
「昨日の朝、冷蔵庫から出そうと思ってて…
そしたら編集長から呼び出しがあって…慌ててそのまま…」
「えーーー!」
「あーん、ごめん! 航平ーーー!」
「ひどいよ、美月ちゃん…僕の分を忘れるなんて……」
「本当にごめんね! な、何でも言うことを聞くから許して…」
「…何でも?」
「う、うん」
「じゃあ、また一緒に温泉に入ろう!」
「え?」
「露天風呂から眺める朝の風景は最高なんだって」
「でっ、でもーーー!」
「何でも言うこと聞くって言ったでしょ?」
「航平ーーー!!!」
2月14日 バレンタインデーの朝
一日8組の宿泊客限定、川のせせらぎが聞こえてきそうな静寂に包まれた隠れ宿に
じゃれ合うような明るい笑い声が いつまでも続いていた……。