日曜日
雨上がりの薄日が差し込むカフェで 崇史と莉子は その日見たばかりの新作映画の
話で盛り上がっていた。
切ないラブストーリーよりも、スピード感溢れるアクション映画が観たいと言ったのは
意外にも莉子の方だった。
ぎゅっと両手を握りしめたまま 呼吸をするのも忘れたかのようにスクリーンに目を
向けていた莉子は、迫力のある場面では声を上げては かなり興奮しているようだった。
普段はおとなしくて控え目なのに、時々思い切った行動をする莉子は とても魅力的で
崇史は 彼女に会うたびに惹かれていく自分に気づいていた。
カップを持ったまま 今は物静かな莉子をじっと見ている崇史の視線を感じて
彼女は恥じらうようにうつむいた。
「…そんなに見ないで」
相変わらず 恥ずかしがりやの莉子に 崇史は口元をほころばせると
カップを口元に運ぶ。
「これからどうしようか。 どこか行きたい所はある?」
莉子の顔を自分の方に向かせようと誘いの言葉をかけると 思ったとおり莉子が
顔を上げたので、崇史は笑ってしまった。
「そうね… わたしが行きたい場所に崇史さんも行ってくれる?」
莉子は顔を輝かせて崇史の方を見た。
「うん? もちろん」
「じゃあね… お花屋さんに行きたいわ」
「え?」
「…フローリスト真山」
「………」
「いいでしょ?」
「…うん」
「良かった!」
莉子はにっこり笑うと すぐに立ち上がり、崇史の手を取った。
崇史は驚いて莉子を見上げる。
「そうと決まったら、早速行きましょう!
お土産は何がいいかしら。ななみちゃんはシュークリームも好きよね?」
それまでの控え目な莉子はどこに行ったのか、今 崇史の目の前には
溌剌と明るい莉子がいた。
「…うん、そうだね。
うちの家族はみんな甘いものが好きなんだ」
崇史はやわらかく微笑むと、莉子に手を引かれるままに立ち上がった。
そして 彼は 雨上がりのやわらかな水色の空を眩しそうに眺めた。
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つい勢いで言ってしまった… 莉子は後悔していた。
…これって、今 お付き合いしてる人の実家に行って
彼のご両親にご挨拶するってことなのよね…?
「…どうしよう…」
緊張感から思わず呟いてしまった莉子だったが、目の前に現れた崇史の父と母は
とても和やかに、朗らかな笑顔とともに二人を迎えてくれた。
「まあまあ… いらっしゃい! よく来てくださったわ!」
崇史の母がニコニコと嬉しそうに二人の顔を見た。
「元気にしてるのか?」
崇史の父も目を細めながら二人を眺めている。
「うん、何とかやってるよ。
父さんは初めてだったね。 …紹介するよ、こちらは朝倉莉子さん。
今、付き合ってる人なんだ」
崇史は照れくさそうに莉子を紹介すると、そっと彼女の肩に手を置いた。
「は、初めまして! 朝倉莉子と申します。よろしくお願いします!」
莉子は慌てて言うと深々とお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしく。家内と娘から話は聞いてますよ。
今日はわざわざ来てくれてありがとう」
崇史の父は穏やかに笑いながら礼を言った。
「いっ、いえ! 突然、お邪魔して申し訳ありません」
莉子が恐縮していると、崇史の母はくすくす笑い出した。
「莉子さんったら、そんなに緊張しないで…。
でも、ね?お父さん… わたしが言ってたとおり、可愛らしいお嬢さんでしょ?」
「ああ、そうだな。 これじゃあ、なかなか家に寄り付かなかった崇史も
見せびらかしに来たくなるのもわかるような気がするよ」
「父さんもそう思う?」
「ああ、お前にしては上出来だ」
親子3人の弾む会話に 恥ずかしくなってしまった莉子は 思わず顔を赤くした。
そして ほんの少し前まで抱いていた緊張感が 崇史の家族の温かい歓迎のおかげで
次第になくなっていくのを感じていた。
崇史も、崇史の両親もとても嬉しそうに笑っている。
そのことが莉子をよりいっそう穏やかな気分にしてくれた。
「莉子さんにあげたいと思ってたの」
崇史の実家で 彼の両親や妹のななみと賑やかな夕食を囲んだ後
隣のフラワーショップに莉子を連れ出した崇史の母は
鮮やかな緑の葉の中に純白の可憐な花をつけた鉢植えを差し出しながら言った。
「…ジャスミンですよね?」
莉子はぱっと顔を輝かせて声を上げると、崇史の母も嬉しそうにうなずいた。
「そう、アラビアジャスミンなんだけど 別名は茉莉花でしょ?
何だか莉子さんのことを思い出しちゃって…」
「あの… 実は わたし…双子の姉がいるんですけど… 名前が茉莉なんです」
「まあ! そうなの?」
「はい、母がジャスミンの花が好きで、本当はわたしたちの名前を茉莉と莉花に
したかったらしいんですけど、父の母…祖母の名前が里香だったので
それはちょっと呼びにくいということで…」
「あらあら、そうだったの」
「はい。 だからわたしは莉子という名前になったんです」
「まあ」
「本当は二人合わせて茉莉花…ジャスミンだったんですけど
何だか中途半端になってしまいました」
「あら、そんなことないわ。莉子さん…なんて、素敵な名前じゃない?
それに、里香さん…も 莉子さんのおばあ様も可愛いお名前だわ」
「はい、祖母は性格や仕草も無邪気で可愛い人なんです」
「莉子さんと同じだわ。
じゃあ、ちょうど良かったわ。このお花、もらってくれる?」
「え? でも、いつも頂いてばかりいいるので 今日は買っていこうかと…」
「あら、そんなこと言わないでプレゼントさせてね。
せっかく来てくれたんだもの、お土産よ!」
「でも…」
「いいのよ。崇史も連れて来てもらったし…
あの子ったら、たまに電話はくれるんだけど、家にはなかなか来なくて…
息子だから素っ気ないのよね」
崇史の母はそう言っても、どこか楽しそうに笑っている。
「だからね、莉子さんには感謝してるのよ」
「そんな…。 わたしはただお花が欲しいって言っただけなんです」
「ふふ… だから莉子さんみたいに お花が好きな人にもらってほしいのよ」
崇史の母は莉子に優しく微笑みかけた。
それでも、莉子はまだ戸惑っている。
「…莉子さん」
「はい」
「崇史のこと…よろしくね。
母親のわたしが言うのも何だけど、本当に優しくて良い息子なの。
いろいろ辛い思いもしてるはずなのに 表に出さないで必死に我慢してきたの。
今まであの子が我儘を言ったのは 大学を卒業して一人暮らしをしたいって
言った時だけなのよ」
「そうなんですか」
「それもわたしに遠慮して言ったんだと思ってるの」
「おばさま…」
「だから、今日みたいに何でも言い合えることができると嬉しいの。
崇史はあなたには何でも話せるようだから相談にのってあげて」
「そんな… わたしはただ話を聞くことぐらいしかできないんですけど…」
莉子は困ったような表情を浮かべたが すぐに、はい…と素直にうなずいた。
崇史の父の運転する車に乗せてもらった二人は 莉子のマンションの前で一緒に降りた。
「またいつでも遊びに来てください」
「はい、わざわざ送っていただいてありがとうございました」
「気をつけて帰って」
にこやかに笑う崇史の父に 莉子はお辞儀をし、崇史は声をかけた。
動き出した車を見送った後、莉子は崇史を見上げた。
「崇史さんも家まで乗せてもらえばよかったのに…
お父さんともっと話したかったんじゃない?」
「うん。でも、明日の授業の準備もあるから 今日はもういいんだ。
…それより、部屋まで送って行くよ」
「ううん、ここでいいわ。
崇史さんは早く帰って明日に備えなきゃ…」
「大丈夫だよ。もう一つの大事な莉子を無事に部屋まで送り届けないとね」
崇史はそう言うと ジャスミンの鉢植えが入った袋を持ち上げた。
「まあ…」
莉子はくすっと笑い、崇史を見上げた。
「じゃあ、今日はこれで…」
マンションの玄関に入り、鉢植えを床の上に置いた崇史がそう言うと
莉子は ありがとう、と笑いかけた。
崇史はそんな莉子を見てふっと笑うと、やはり そのまま帰ることはできなくて
彼女の腕を引き寄せて抱きしめてしまう。
何度か抱き直した後、崇史は 莉子の小さな顎を持ち上げると その花びらのように
可憐な唇に そっと自分の唇を重ねる。
足元から漂ってくるジャスミンの優美な香りに包まれて 莉子の唇はいつにも増して
甘くしっとりと濡れている。
「…崇史さん…」
そっと唇を離すと、胸の中から恥じらうように頬を染めた莉子が崇史を見つめていた。
純白のジャスミンの花のように清楚で優しい莉子は
崇史にとって何よりも大切で愛おしい宝物だった。
…ずっと、こうしていたいけど…
「…じゃあ、帰るよ」
「ええ… 気をつけてね」
「莉子も… ゆっくり休んで。 今日は疲れただろう?」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「えっ…と… ほんの少し…疲れたかも。 緊張したし…」
「やっぱり…」
崇史が笑い出すと、莉子は恥ずかしそうにうつむいた。
「莉子…」
「はい?」
「今日はありがとう」
「何が?」
「僕の背中を押してくれて…」
「ううん… 崇史さんがずっと思ってたことを自分で実行しただけよ。
わたしはお土産のケーキを選んだだけ…」
「莉子…」
崇史はふうっと息を吐くと、また莉子をぎゅっと抱きしめた。
驚いて声を上げる莉子。
「だめだよ 莉子…」
「え?」
「そんな風に言われたら… 帰れなくなる」
「崇史さん…」
崇史の腕の中で莉子はゆっくりと目を閉じた……。
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その日、久しぶりに 崇史はいとこの真山俊と友人の小泉薫、香坂翔太の
4人と一緒にバーで飲んでいた。
「莉子ちゃんを家に連れてって、叔父さんに紹介したって?」
真山は驚いて崇史の顔を覗き込んだ。
「それって、崇史の結婚相手として会わせたのか?」
翔太も笑いながら崇史に言った。
「…そんなわけないでしょ!!!」
薫はテーブルを思い切り叩くと 立ち上がって翔太に食って掛かった。
「どうした?薫… 何を興奮してるんだ?」
崇史はいつもと違う薫に驚いて目を丸くした。
「崇史が…けっ、結婚だなんて聞いて興奮しないでいられると思う?
それより、本当のところはどうなの? もうそんな話になってるの???」
薫はかなり動揺して崇史に詰め寄った。
「いや、まだ そこまで話は進んでないけど…」
相変わらずのん気な崇史は照れたように笑うと、次に出てくる彼の言葉を
待っている3人を見渡した。
「でも… 近いうちに、いや 夏休みにでも
彼女の実家に行って挨拶したいと思ってるんだ」
「ホントかよ? 何て速い展開なんだ! 莉子さんの気持ちも同じなのか?」
「崇史、おまえ 手だけでなく行動も素早かったんだな!」
「ダメよ!!!」
「え?」
「そんな…早すぎるわ!!!
けっ、結婚はもっとお互いを十分に知り尽くしてからじゃないと!」
「…経験もない薫がよく言うよな」
「うるさい、翔太は黙ってて!」
「薫ちゃん? 酔ってるのか?」
「酔ってなんかいません!
それより崇史? あなた、一人で先走ってるんじゃないの?」
薫はキッと翔太と真山を睨みつけると、崇史に向かって叫んだ。
「本当は彼女はまだ けっ、結婚なんて考えてないのに 崇史が勘違いして
無理矢理連れてって おじさま達に紹介したとか…」
…ふん、わたしだって 崇史のご両親とは何回か会ってるのよ!
わたしの方が付き合いが長いし、親しいんだから!
「…そうかもしれないな…」
何かと言い返す薫に向かって 崇史はそう答えると静かに笑った。
「何だ? 崇史、その爽やかな笑顔は?」
「何か隠してるな?白状しろーーー!」
「ちょっと、崇史! わたしたちに隠し事なんてないわよね???」
3人に問い詰められる崇史だったが、彼は黙ったままにっこり笑い
首を横に振るだけだった。
それを見た薫は不満そうに首を傾げると、何とか崇史の本心を聞き出そうとして
彼の方へじわじわと近寄って行った……。