君が好き -6- ミントグリーンの朝
また月曜日になった。
莉子はミルクティーをひと口飲むと、時計代わりに見ているTV画面に 目を向けた。
「…今日のお天気は晴れ…ね」
莉子は呟くと小さなため息をついた。
これなら崇史さんも大丈夫ね……
そう思った途端、莉子はふふっと笑ってしまった。
わたしったら、何言ってるの?
崇史さんは子供じゃないのに…
雨だから学校に行かない、なんてことはないのに…
昨夜、崇史を見送った後 部屋に戻ってくると数分も経たないうちに 崇史からお礼の電話がかかってきた。
“崇史さん、もう着いたんですか?”
“ええ、早いでしょう?”
“本当に近所なんですね”
“ええ…。 …今日はありがとう 莉子さんのおかげで雨に濡れずにすみました”
“…良かった”
“女の人はいいですね。 傘の色も明るいのが多くて… 差してるだけで気持ちが明るくなります”
“あ、だったら また雨が降ったらその傘を使ってください”
“え?”
“それで崇史さんの憂鬱が少しでも消えたらいいと思うから…”
“莉子さん…”
“あ、それから もしオレンジ色に飽きたら ピンクの花柄とか白い水玉の傘も 持ってますから、遠慮しないでくださいね”
“ピンクの花柄? …えっと…それはちょっと…”
“…あら、だめですか? 似合うと思いますけど”
“え?さすがにピンクはちょっと…”
一瞬の沈黙の後 二人は同時に笑い出していた。
顔は見えなくても、莉子には崇史の明るい笑顔が目に浮んだ。
“…ありがとう、莉子さん”
ひとしきり笑い声が続いた後、崇史が改まった様子で言った。
“何がですか?”
“えっと、何となく… お礼が言いたくて… 今日は莉子さんに会えて本当に良かった”
“わたしも…”
“また会ってくれますか?”
“はい。 …わたしもまた会いたいです”
ごく自然に流れるように その言葉が莉子の口から出ていた。
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「へえーーー! それって、かなり進展したじゃない! …それにしても、莉子ってば大胆すぎるわ! 初めて会った男を部屋に入れるなんて… あなたホントに あのオクテの莉子なのーーー???」
オフィスルームの窓際で 美穂が興奮して目を輝かせながら言った。
「うん… 何も考えてなかったというか、気がついたら叫んでたの。 自分でもびっくりしちゃって… 今、思い出しても恥ずかしくて顔から火が出そうなの」
莉子はまた顔を真っ赤にして頬を押さえた。
「ふふ…でも、楽しかったんだから良かったじゃない! よく頑張ったわ、莉子。 …それで? 彼はどんな人だった?」
「うん、とっても素敵で… 穏やかで、すごくいい人だった。 ごはんも美味しそうに食べてくれて、料理が上手だって褒めてくれたの」
「ふ~ん、きっと育ちがいいのね! 学校の先生で素敵で性格も良くて、それって完璧じゃない!」
「美穂ったら、そんな大声を出さないで…また皆から… …あ… …」
莉子は途中で口をつぐむと、顔を上げて視線を前に向けた。
オフィスルームのドアが開いて、同じ広報部の先輩である由希が入ってきた。
一週間前に真山と結婚し、新婚旅行に行っていた彼女が 久しぶりに出社したのだった。
「由希さん!」
「おはよう、莉子ちゃん! 美穂ちゃんも結婚式の時はありがとう」
真山由希は後輩二人に向かって幸せに満ちた顔で微笑んだ。
信じられない事に 莉子はこの時になって、今日から真山俊も出社することを 思い出し ここ数日間それを忘れていたことに気づいた。
「…明後日の記者発表の準備はOKなのね? メディア関係に渡す資料はできてる? ああ、莉子ちゃんがやってくれたのなら安心ね」
由希は莉子から受け取った書類をパラパラめくりながら言った。
左手の薬指にはプラチナのマリッジリングが誇らしげに輝いている。
莉子は 改めて由希が真山と結婚したのだと実感すると やはり胸の奥が痛んだ。
こうして同じ会社にいる限り 顔を合わせる機会は以前と変わらないのだから 自分の思いは隠して平静を装うしかないのに…
「莉子ちゃん? どうかした?」
由希に呼ばれてはっとした。
「あ、いいえ 何でもありません」
「そうだわ。 莉子ちゃんにお土産買って来たのよ」
「え?」
「今日、渡そうと思ったんだけど 俊が自分で渡したいんですって。 後で持ってくると思うからもらってね。 俊ったら莉子ちゃんの分は自分で選ぶって聞かないの。 …何だか妬けちゃったわ!」
「え? そっ、そんなこと…」
狼狽する莉子を見て、由希は可笑しそうに笑った。
「そこよ… きっとそういうところが気に入ってるのね。 可愛い妹みたいでほっとけないのかな」
「由希さん」
「そうだわ。今度、みんなで家に遊びに来て」
「え?」
「大したものは作れないけど、ご馳走するわ」
由希の言葉に莉子が戸惑っていると、それを近くで聞いていた同僚の静香が声を上げた。
「わあ、新婚さんのお宅にお邪魔しちゃっていいんですか!」
何も知らない静香がからかうように由希に言った。
「やあね、もう彼とは長い付き合いだから 新婚なんて雰囲気じゃないのよ」
「嘘ばっかりーー!きっと熱々であてられそう! でも、いいわ。喜んでお邪魔します!ね、莉子?」
「あ… う、うん…」
「そうよ、美穂ちゃんも一緒に3人で来てね」
「はい、ありがとうございまーす!」
社内結婚をした真山と由希の新婚生活がどんなものなのか好奇心いっぱいの静香は 陽気に言うと楽しそうに笑った。
その隣で、莉子はどうしよう…とまた気が重くなっていた。
その日、莉子が帰宅しようとエレベーターに乗ると、途中の階で止まり 扉が開き そこには真山俊が立っていた。
「…真山さん」
「莉子ちゃん! 今、帰り?」
エレベーターに乗ってるのは二人だけで 真山は人懐っこい笑みを浮かべると 戸惑い気味の莉子に話しかけてきた。
「はい。 あ、さっきはお土産をありがとうございました」
「気に入ってくれた?」
「はい、とても… すごく綺麗な色のスカーフで…嬉しかったです」
「それは良かった! …ところで、今日は一人?」
「あ、はい。 美穂は午後から外出して そのまま直帰です …静香は約束があるって先に帰りました」
「莉子ちゃんはデートじゃないの?」
「…わたしにはそんな相手がいないから…」
「…莉子ちゃんにデートする相手がいないのは俺のせいなのかな」
「はい?」
「いつも莉子ちゃんの傍にいて見張ってるから 他の男が近づけないんだと 由希に言われたよ」
「え?」
「そんなつもりはなかったんだが…結果的にはそうなってしまったかもしれない」
「真山さん」
「社内には莉子ちゃんを狙ってる男がけっこういたんだよ」
「真山さんったら、またそんな冗談を言って」
「あれ、嘘だと思ってる? 清純で可愛い莉子ちゃんはモテるんだ。 …あ、着いたよ」
話してるうちに一階に着くと、真山は先に歩き出し 呆然としていた莉子も はっと気がついて後を追うように小走りでついて行く。
「まっ、真山さん!」
莉子が呼ぶと真山はくるっと振り向くとにっこり笑った。
「意外な事実を知って驚いた?」
「でも、あの どうして…」
「俺は純情な莉子ちゃんが悪い男に騙されないように ボディーガードにでも なったつもりで守ってたのかもしれない。あ、悪い男って言うのは俺も 含めてだけどね。 莉子ちゃんにしてみれば余計なお世話だったな」
真山は照れたように頭をかいた。
「真山さん…」
莉子と真山はエントランスホールの真ん中で立ち止まり向かい合った。
「…じゃあ、もう わたしのボディーガード役は終わりですね?」
莉子はそう言うと切なそうに微笑んだ。
「え?」
「これから真山さんが守っていくのは由希さんだもの」
「莉子ちゃん?」
「わたし…感謝してます。 ここに入社した時からずっと真山さんには優しくしてもらって… 仕事で失敗して落ち込んだ時にも元気づけてくれて …本当にありがとう、真山さん」
「何だか別れの言葉みたいだな」
「…別れとはちょっと違うけど… でも、そうなのかな。 わたし、もう大丈夫ですから…安心してください」
「莉子ちゃん」
「もう一人でも大丈夫です」
「……」
真剣な表情を浮べ、凛とした態度で告げる莉子を 真山は驚いたように見つめた。
莉子はまっすぐに真山を見上げると にっこり微笑んだ。
オフィスから出ると「じゃあ、気をつけて帰れよ」と真山が言うと 莉子は「はい、お疲れ様でした」と答えた。
そして 真山は右に、莉子は左に別れて歩き始めた。
すでに日は暮れて、オフィス街にはイルミネーションが瞬き始めている。
少し歩いてから莉子はふと振り返り、真山の後姿を眺めた。
そのがっしりとした広い背中が大好きだった。
莉子の頭を撫でてくれる大きな手も、とびきり明るい笑顔も大好きだった。
けれど、今はそれに別れを告げる時が来たのだと思う。
莉子は去っていく真山の背中に向かって呟いた。
「さよなら 真山さん…」
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朝の公園は眩しい日差しが降りそそいでいた。
春の爽やかな風が吹いて さわさわと木々の葉を揺らしている。
その中を莉子が慌てた様子で走ってくる。
明るいミントグリーンの木漏れ日を眩しそうに見上げていた崇史は 莉子の姿を見つけると 笑って軽く手を上げた。
「おはよう 莉子さん」
「おはようございます」
息を弾ませながら莉子が言うと、崇史はくすくす笑い出した。
「そんなに急がなくてもいいのに」
「ええ、でも 崇史さんが待ってると思ったから」
「今朝、いきなり電話をもらってびっくりしたよ」
「ごめんなさい、朝早くから…まだ寝てました?」
「あ、いや…ちょうど起きようと思ってたところだった…」
「………」
「…嘘です、本当は爆睡してました」
極まり悪そうに白状する崇史を見て、莉子はぷっと噴き出し“ごめんなさい”と謝った。
「…今朝、何だかいつもより早く目が覚めてしまって…窓を開けたら朝焼けが綺麗で そしたら外に出たくなって、近くに公園があったことを思い出して…」
「でも、一人で散歩するのは嫌だから僕を…?」
「ごめんなさい! でもっ、崇史さんと一緒に食べようと思ってサンドイッチを 作ってきたんです」
「え?」
「朝ごはん、まだでしょう?」
「あ…うん、まだだけど…」
「良かった! コーヒーも持ってきたので…」
「………」
「…あの… やっぱり迷惑でした?」
崇史が何も応えないので 莉子は不安になってきた。
「そうですよね。こんな朝早くから電話して…これから学校もあるのに…」
「迷惑なんて…そんなことはないけど …でも…」
「でも?」
「気のせいかもしれないけど、何だか君が無理してるような気がして… 何かあったのかな?」
「え?」
「今朝も早く目が覚めたんじゃなくて、本当は昨夜からあまり寝てないんでしょう? 目が赤い…」
「崇史さん…」
莉子が驚いた顔で崇史を見ると、彼はやわらかい笑みを返してきた。
崇史は 莉子が差し出したタッパーから玉子のサンドイッチをつまむと、ひと口食べた。
「うん、これも美味いね!」
崇史が褒めると莉子は嬉しそうに笑い、そして自分もサンドイッチを食べた。
そして小さくため息をつくと遠くを見つめた。
「…崇史さんが言ってたとおりなんです。 昨夜はなかなか眠れなくて…ずっと朝まで起きてたというか…」
「うん…」
「昨日、ちょっとしたことがあって…気持ちを整理したんです。 今までずっと引きずっていたことに区切りをつけて わたしって本当に曖昧で優柔不断だから…このままじゃいけないと思って…」
莉子は自分の気持ちを確かめるように言葉を探す。
崇史は黙ったまま莉子の話を聞いている。
「でも、実際にそうしようと思ったら、何だか悲しくて…寂しくて 前に進もうと決心したのに、やっぱり不安で……」
「莉子さん」
「ふふ…情けないですよね。結局いじいじ悩んで…いろいろ考えてたら 眠れなくなってしまって… わたし、臆病なんです」
そう言ってるうちに、莉子の大きな瞳から涙が溢れ出し 透きとおった雫が莉子の白い頬をすうっと伝わって落ちた。
「やっ、やだ… ごめんなさい! わたしったら…」
莉子は慌ててうつむき、涙を指で拭った。
「崇史さんの前で泣くなんて… …崇史さんが優しい人だからつい甘えて…頼ってしまって…ごめんなさい」
「いいよ…謝らなくて…」
「でも…」
「僕でよければ頼っていいし、泣きたい時には我慢しないで 思いきり泣いていいよ」
「崇史さん…」
「君の傍にいるから…」
「え?」
「莉子さんが前に進めるように、僕がずっと傍にいる」
「崇史さん…?」
眩しい朝の光が降りそそぐ朝だった。
莉子は驚いた顔で崇史を見ている。
そんな莉子に 崇史はやわらかな眼差しで見つめ返し、告げた。
「僕は… 君が好きです……」
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