「莉子さん、待って!」
エレベーターを降りてマンションの外に飛び出した莉子の手を
掴まえたのは崇史だった。
莉子は小さく声を上げて振り向いた。
その顔は今にも泣き出しそうだった。
「頼むから もう逃げないで」
「崇史さん…」
崇史の真剣な顔を見て莉子は息を吐きながらうつむいた。
「でも…わたしは崇史さんに合わせる顔がないの。
あなたにひどいことをしてしまって… 真山さんにまであんなことを…」
「俊はわざと言ったんだ、本心じゃないよ」
「え?」
「それに…君がさっき言ったことは嘘じゃないでしょう?」
「あ…」
「…僕のことを好きだって… あれは僕の気持ちと同じってことだよね?」
「崇史さん…」
「僕の聞き間違いじゃないよね?」
真剣で、不安げな崇史の顔を見て 莉子は思わずこくんと頷いた。
「…そうです… わたしは……」
莉子が次の言葉を言おうとした瞬間、崇史の腕が伸びてきて あっと言う間に抱きしめられた。
驚いた莉子は慌てて身を引いたが、崇史は離そうとはしなかった。
莉子が逃げられないようにぎゅっと抱きしめ、胸の中に包み込んだ。
「崇史さん…」
崇史の大きな胸の中で 莉子は声を震わせながらその名前を呼んだ。
「…好きだよ…」
聞き慣れた崇史の声が莉子の耳元で優しく響く。
崇史の吐息を感じただけで、体中が熱く火照ってくるような気がした。
「…わたしも… わたしも崇史さんが好きです…」
小さいけれど心からの真剣な莉子の言葉を聞いて 崇史はまた莉子を抱きしめる腕に
力を込めた。
強く抱きしめられて息ができないくらいなのに、莉子の体の全てが崇史の胸の中に
すっぽりと包まれて その温かさに涙が出そうなほど安らいだ気持ちになってくる。
「…でも… わたし、崇史さんのことを好きになってもいいの?」
…わたしは真山さんのことがずっと好きで…忘れられないと思っていたのに…
「こんなに早く気持ちが変わってしまって…
それなのに、崇史さんに自分の思いを告げてもいいの…?」
まだ心のどこかで迷っていたことが言葉になって 莉子の声を震わせる。
「…いいよ」
崇史は莉子の髪に顔をうずめて囁いた。
「過去のことはもういいんだ。
…今の莉子さんの気持ちが大切だから…それだけでいいんだ」
「崇史さん…」
「だから… もう逃げないで… 僕の傍にいてほしい…」
「…ほんとに? わたし、崇史さんの傍にいてもいいの?」
「うん…」
莉子の背中に当てられた崇史の手は温かかった。
愛おしそうに、包み込むように抱きしめられて莉子はゆっくりと目を閉じ
囁くように言った。
「わたし…崇史さんの傍にいます… もう逃げません…」
もう、莉子には何の迷いもなかった。それが今の素直な気持ちだった。
「うん…」
莉子の言葉にほっとしたように、崇史は深く息を吐いた。
莉子は躊躇いながら崇史の背中に手を回し、そっと抱きしめた。
崇史を抱きしめたのは初めてだった。
大きくて温かな胸の中に顔をうずめると、幸せで嬉しくて 涙が一粒だけ
こぼれ落ちた。
しばらく抱き合った後、ゆっくりと体を離した二人はお互いの顔を見て
照れたように微笑み合った。
その時になって、今まで自分が何をしていたのか気づいた莉子は 恥ずかしさで
また いつものように頬を赤くしてうつむいた。
崇史はくすっと笑い、少し屈むと莉子の耳元で囁いた。
「…このまま二人で どこかへ逃げちゃおうか?」
「え???」
「今戻ったら、かなりの質問攻めにあうと思うよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら崇史は莉子の顔を覗き込んだ。
「でっ、でも… わたし、バッグを置いたまま出てきたから…
お財布も鍵も携帯も中に入ってて」
「それなら、皆が帰った頃に取りに来ればいい…」
真面目な崇史が さらに真面目な莉子をそそのかそうとしていると
まるで、それを見ていたかのように崇史の携帯が着信を告げた。
「……」
着信画面を見て、崇史はがっかりしたようにため息をつくと
仕方なく電話に出た。
「…もしもし…」
『おい、崇史! まさか、そのまま二人でどこかへ逃げようなんて考えて
ないよな? わかってると思うが、今までの経緯を全て話してもらわない限り
今日は帰さないからな。 …とにかく二人とも早く戻って来い!』
わざと大声を出して問い詰める振りをしながら、実はからかっている真山の顔が
思い浮かんだ。
わざわざ電話に出ることもなかったのに、つい出てしまった自分の生真面目さに
後悔しながら ふと見た莉子が不思議そうに首を傾げてるのが可笑しくて
また抱きしめたくなるほど愛おしくて 崇史はつい笑ってしまうのだった……。
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まるでタレントの婚約記者会見のような質問攻めにあい、約一名を除く友人達から
散々冷やかされた後、莉子と崇史が開放された時にはすでに外は暗くなっていた。
気を利かせて美穂と静香は先に帰り、翔太も不機嫌な顔で“まだここにいる!”とごねる
薫を無理矢理引きずるように その後帰って行った。
途中で逃げ出したお詫びに、莉子は後片付けを手伝っていたので ますます
遅くなってしまった。
「今日はご馳走様でした」
「ご馳走様でした、とっても美味しかったです」
マンションのエントランスまで見送りに来てくれた真山と由希に 崇史と莉子は
今日のお礼を言った。
「こちらこそありがとう、莉子ちゃん。後片付けまでしてもらって助かったわ
…崇史君、ちゃんと莉子ちゃんを送ってあげてね」
由希は莉子に向かってにっこり笑った後、崇史をからかうように見上げた。
「ええ、もちろん。ちゃんと部屋の前まで送り届けます」
崇史はにこやかに笑い隣にいる莉子を見ると、それに気づいた莉子は
恥ずかしそうにぽっと赤くなった。
「…そのまま中に入ったりするなよ」
真山は面白くなさそうな顔をして崇史をちらっと見た。
「ばかね、俊じゃないんだから…真面目な崇史君がそんなことするわけないでしょ?」
「いや、何しろこいつは初めて莉子ちゃんに会ったその日に、莉子ちゃんの手料理を
ご馳走になってるんだぞ!…俺でさえ食べたことないのに」
「それは莉子ちゃんが俊のことを危険な男だと感じ取っていたからよ」
「ひどい…」
何の遠慮もなく言う由希と苦笑いしてる真山を見て、崇史はまたいつものふざけ半分の
口げんかが始まったと呆れたように肩をすくめた。
「莉子さん、この二人はほっといて帰ろう。
じゃあ 俊、由希さん 帰ります」
崇史はそう言うと莉子を促すように歩き出す。
「崇史君、また遊びに来てね! 今度は莉子ちゃんと二人でね。
…ほら、もしかしたら わたしたち親戚になるかもしれないし…」
「え?」
「えっ?」
由希の言葉に莉子と崇史は 思わず振り向いた。
由希は楽しそうに笑いながら、そんな二人にひらひらと手を振っている。
え? あの…それは… 莉子はまた真っ赤になってうつむくしかなかった。
「…忘れ物ない?」
崇史が振り向くと、遅れがちに歩いていた莉子が慌てて小走りで崇史に
駆け寄ってきた。
「ああ、ごめん。歩くのが速過ぎたね」
崇史はふっと笑うと莉子の方に右手を差し出した。
最初、莉子はきょとんとしていたが 崇史がもう一度差し伸べると やっと
その意味がわかったのか 一瞬、戸惑い 頬を染めた。
だが、崇史のやわらかな笑みを見てほっとした莉子は 遠慮がちに
その手にそっと自分の手を重ねた。
崇史は綺麗な笑顔を浮かべると 莉子の手をゆっくりと包み込み
しっかりと握り締めた。
そして、二人は黙ったまま手を繋いで歩き出した。
「…見ろよ、あのぎこちなさ。 …もしかして手を繋ぐのも初めてか?」
マンションの前で二人を見送っていた真山が呆れたように言った。
「初々しくて、あの二人らしいじゃない?」
由希は満足そうに微笑み、何度も頷いた。
真山はそのまま黙って二人の後姿を見つめている。
「…俊? どうかした?」
「由希、俺さ…」
「うん」
「莉子ちゃんのこと心配だったけど、崇史なら彼女のまっすぐで一途なところを
受け止められると思って すごく安心したんだ」
「そうね」
「でも、本当は違うのかもしれない」
「え?」
「莉子ちゃんなら崇史のことをわかってくれる…
彼女がついてれば崇史も大丈夫かもしれないって思うよ」
「俊…」
「あいつ…いつも平然としてるけど、けっこう複雑だからさ…」
「崇史君の…実のお母さんのこと?」
「まだ莉子ちゃんには話してないだろうし」
「そうね。 でも大丈夫よ。
莉子ちゃんって、意外としっかりしてるし いざとなったら強いもの」
「そうだな」
「さあ、だから 崇史君のことも莉子ちゃんのことも もう二人に任せて
俊は奥さんに集中してちょうだい。…でないと浮気しちゃうわよ」
由希は悪戯っぽい笑みを浮かべながら真山の顔を覗き込んだ。
「はいはい。結婚したばかりなのに浮気されちゃかなわないからな。
じゃ、まず一緒にシャワー浴びようか?」
真山はからかうように由希の肩を抱き寄せた。
「ばか! …もうっ、いとこ同士なのに…どうしてそんなに性格が違うの?
崇史君はあんなに真面目で爽やかなのに!」
「ふん、いくら崇史が真面目だからって男なんだから同じさ。
すぐにでも莉子ちゃんを押し倒して…」
「………」
「……」
真山と由希は黙ったまま顔を見合わせた。
「…それはなないな」
「ありえないわね」
同時に言って、思わず吹き出してしまった二人は 気を取り直して歩き始めた。
そして、真山はくすくす笑いながら言った。
「…あの二人、キスまで半年はかかるんじゃないか?」
二人は帰りの電車の中で一緒に並んで座っていた。
土曜日の夜の車内は混雑のピークは過ぎたとみえて、半分ぐらいの席が
埋まっている。
「あ…の… 崇史さん…」
なぜかまた頬を赤くした莉子が困ったように隣の崇史を呼んだ。
「うん?」
やわらかな笑みを浮かべた崇史は莉子の顔を覗き込んだ。
「手を…離して… …」
恥ずかしそうに小さな声で莉子が言った。
「どうして?」
崇史がふっと笑い、首を傾げながら訊いてきたので 莉子はますます
困ったような表情になった。
「だって… 恥ずかしい… 誰かに見られるかもしれないし…」
そう言ってうつむいた莉子の左手は 崇史の膝の上で彼の手に包まれていた。
真山のマンションの前で手を繋いだ時からずっとそのままで 電車に乗ってからも
崇史は莉子の手を離そうとはしなかった。
「大丈夫だよ。見られても困ることはないし…
それに、こうしてれば もうどこにも逃げられないでしょう?」
崇史はそう言うと、莉子の手を握る手に力を込めた。
「もう逃げたりしないから… 離して… 」
「手を繋ぐのは嫌?」
「嫌じゃないけど…」
「僕の手が嫌い?」
「そ、そんなことない! …崇史さんの手…とても好きです」
「じゃあ、このままでいいよね?」
「……」
「莉子さんがどうしても駄目だって言うならやめるけど」
「……」
「どうする?」
「意地悪ね、崇史さんは…」
「僕が意地悪?」
「そうです… 今までの優しい崇史さんなら、そんな意地悪なこと言わなかった」
「好きな子には意地悪したくなるんだ」
「子供みたい…」
「そうだね、中学生みたいだ。
…こんなに胸が熱くなるのは久しぶりのような気がする。 だから…」
「え…」
「だから…不安なんだ。
手を離したら…また君がどこかに行ってしまいそうで。
その人を大切だと思えば思うほど自分から離れて行きそうで…」
「崇史さん?」
莉子ははっとして崇史を見上げた。
「…なんて、大袈裟だね」
そんな莉子に気づいた崇史は冗談っぽく笑った。
「やだ、もう… 崇史さんったら深刻な顔してるからびっくりしちゃった」
「ごめん…」
「ねえ、崇史さん?」
「うん?」
「わたし…もう逃げたりしないから、不安にならないで」
「うん」
素直に返事をする崇史を見た莉子は 穏やかな笑みを浮かべ、自分の左手を握っている
崇史の手の上にそっと右手を重ねた。
そうすると自然に莉子の体は崇史の方に向けられ、二人の膝が触れ合いそうなほど
近くに寄り添う形になった。
「…今度は崇史さんが逃げられなくなった?」
「そうだね…」
崇史は笑いながらそう言うと、さらにその上に自分の手を重ねて莉子の両手を包み込んだ。
電車を降りて駅前のロータリーから歩道をゆっくりと歩く。
手を繋ぐことにも少しは慣れた莉子だったが 時々、崇史を見上げ目が合うと
恥ずかしそうにうつむいた。
しばらく歩いた二人は交差点まで来ると立ち止まった。
右の曲がれば莉子の、まっすぐ行くと崇史のマンションがある。
「崇史さん、遠回りになるからここでいいです」
「僕がそんな提案を受け入れると思う?」
「…思わない…です」
「ちゃんと部屋に入るまで見届けるよ」
「…ありがとう」
莉子はまた恥ずかしそうにうつむいた。
崇史はそんな莉子を見て、たまらなく可愛いと思う。
だから、思わず口にしてしまった。
「…このまま、まっすぐ行ってもいいかな…」
「え?」
「僕の部屋に来てくれませんか?」
「え?」
「もう少し君と話がしたい… 一緒にいたいんだ…」
崇史の言葉に 莉子は驚いたように彼を見つめた……。
何度も頬を撫でられるのを感じて 莉子はうっすらと目を開けた。
朝の眩しい光の中 まだ目が覚めきってない莉子はぼんやりしてて
それが誰だかわかるまで少しだけ時間がかかった。
眼鏡を外し、今まで見た中でいちばん穏やかな笑みを浮かべている彼が
優しく莉子を見つめていた。
二人は真っ白なシーツに包まれていた。
心が震えるような やわらかな声で 崇史が囁いた。
「…おはよう 莉子…」