-10- 朝陽の中でキスをして
「ごめんなさい… わたし つい、はしゃいでしまって…」
柚子は落ち込んだ様子でうな垂れていた。
「まさか編集の方が来てたなんて… 呆れてましたよね。
もう、恥ずかしくて顔から火が出そうです」
顔を両手で覆い、何度も首を横に振る柚子を見て 永瀬は思わず笑ってしまった。
「そんなに気にすることない。いつも してることじゃないか」
「え???」
からかうような永瀬の言葉に 柚子は真っ赤になってしまった。
「そっ、そんな… えっと… それは そうなんですけど…」
しょうがないな… 永瀬は呟くと 消え入りそうな声で話す柚子の身体を引き寄せ
そっと両手で包みこんだ。
柚子はあっと声を上げ、しばらく慌てていたが そのうちに永瀬の胸の中に頬を寄せて
ゆっくりと目を閉じた。
…きれいな人ですね… 柚子がため息混じりに囁いた。
…大人で 仕事もバリバリこなして… カフェで見た時も思ったけど
やっぱり永瀬さんには あんな人が似合ってるのかも…
「どうした? 今日はおとなしいね」
胸の中でじっとしている柚子に気づいて 永瀬は彼女の肩に手を置いて
顔を覗き込んだ。
「…いろいろ落ち込んでるんです」
柚子はポッと赤くなった後、慌てて永瀬から目を逸らした。
「じゃあ、元気になるように いい物をあげよう」
「え?」
「座って」
永瀬は柚子をソファに座らせると、デスクの引き出しから小さな箱を取り出した。
「クリスマスにはちょっと早いけど…」
永瀬はそう言いながら 柚子の後ろに回ると 彼女の首にネックレスをつけた。
シンプルで繊細なプラチナのチェーンに小さな星がきらめき それは柚子の
ほっそりとした首元を 可憐に上品に飾っている。
「え…?」
柚子は驚いて そのネックレスを手に取ってみた。
「…きれい… …」
「ゆずに似合うと思って」
「わたしに? でも…」
柚子は戸惑っていた。
ジュエリーのことは あまりよく知らない柚子でも、そのネックレスは
かなり高価なものだと想像できた。
「思ったとおりだ。よく似合う」
「でも… こんな高価なもの わたしには…」
「イヴに迎えに行くから いつもより少しだけお洒落をして
これをつけてきて」
戸惑う柚子を安心させるように 永瀬は微笑みながら言った。
「クリスマス・イヴに?」
「うん、一緒にピアノコンサートに行こう。
ゆずが好きだって言ってた彼の演奏会のチケットが手に入ったんだ」
「ホントに?」
「ああ」
「じゃあ… わたし、頑張ってお洒落しますね」
「うん」
永瀬は満足そうに笑い、うなずくと またいつものように柚子の髪を
くしゃっと撫でた。
子供扱いしないでください… 柚子はほんのりピンクに染まった頬を膨らませ
ささやかな抵抗をしながら立ち上がり そのまま永瀬に近づいた。
そして どちらからともなく 引き寄せ合うように抱き合った。
永瀬は柚子をやわらかく抱きしめ 柚子は永瀬の背中に手を回した。
ありがとう 永瀬さん… わたし、すごく嬉しいです…
大好きな永瀬の胸の中で 柚子は目を閉じ そして、囁いた……。
* * * * *
12月31日
鎌倉の海岸沿いにあるカフェ・レストラン「小椋亭」では 新年に向けての
カウントダウンパーティーの真っ最中だった。
落ち着いた間接照明が灯るカリフォルニアスタイルの店内には やはりいつものように
サザンの曲が流れている。
店の昔からの馴染み客や、地元の友人などが30人ほど集まり それぞれがテーブルや
カウンター席で 賑やかに談笑している。
丸テーブルを囲んだ席に着いた柚子は 周りにいる客が彼女より年上だったので
最初は緊張して落ち着かない様子だった。
だが、クリスマスイヴに永瀬と行ったピアノリサイタルで聴いた“白い恋人たち”が店内に
流れた時、思わず あ…っと声を上げてしまった。
演奏会で聴いたピアノの その綺麗なメロディーにうっとりとして
その曲があれからずっと耳から離れなかったからだった。
その時のことを思い出した柚子は 嬉しそうに隣に座っている永瀬を見上げると
彼も気づいて微笑み返してくれたので 柚子はポッと頬を染めてうつむいてしまった。
「なになに? 二人して見つめ合って!」
店のオーナーでもある小椋の妻で 永瀬とも 子供の頃から付き合いのある葉子は
からかうように二人の顔を覗き込んだ。
「おい、永瀬! お前、何だかデレデレしていやらしいぞー!
…ったく、いいよなーーー! ゆずちゃん、ハタチだって???」
冬でも日焼けしている小椋が 冷やかすように言った。
「ああ、羨ましいだろう?」
永瀬は照れる様子もなく、平然と言ってのける。
「く~、何て憎たらしいんだ!
深沢の時もかなり羨ましかったが 今回はそれを通り越して妬ましいぞ!」
「何よ! そんなに若い子が好きなら わたしと離婚して、さっさと次の相手を見つけて
再婚すれば? もっとも、誰もアナタみたいなおじさん、相手にしないだろうけど」
「ごっ、誤解するなよ 葉子ちゃーん! 俺は葉子ちゃんみたいな成熟した女の方が
好きなんだよ」
「どうだか!」
「ホントだよー! 俺は葉子ちゃんに嘘なんかついたことないだろ?」
「そうだったかしら?」
葉子は小椋を睨みつけた後、ぷいっと横を向いた。
「また始まった… よくやるな、二人とも」
呆れたように笑いながら言ったのは 深沢潤だった。
「でも、いつも小椋さんが謝って終わるんですよねーーー」
深沢の妻、青山優がニコニコしながら言った。
「何だかんだ言っても 小椋が謝れば丸く収まるんだな」
「…潤先生は謝ったりしないのにね」
「優、僕は小椋みたいに奥さんを怒らせたりしないだろう?」
「そうでした! 潤先生はずっと優しいもの、ね?」
優はそう言うと嬉しそうに深沢の肩に頭を乗せた。
「相変わらず、熱々なのね。深沢君と優ちゃんは…」
葉子はくすくす笑いながら二人の顔を覗き込んだ。
「まったく、優ちゃんもゆずちゃんも 彼が優しい人でいいわね。
それに比べて うちのダンナときたら…」
「何だよ、葉子。 そんなに優しい男がいいのなら お優しくて軟弱な男を
見つけて、さっさと再婚すればいいだろう?」
「ホントにそうしていいの?」
「おい、二人とも! また同じことを繰り返すのか?
いい加減にしろよ」
深沢は また夫婦喧嘩を始めそうになった二人を慌てて止めた。
「そうですよ。ほら、見て! ゆずちゃんがびっくりしてます」
優はそう言うと、柚子の方を見てにっこり笑った。
「あっ、あら! ハタチのゆずちゃんには刺激が強かったかしら?
ごめんなさいね」
葉子は慌てて柚子に笑いかけた。
「い、いえ… ちょっとだけびっくりしたけど… でも、お二人は本当は仲が
いいんですよね。だから安心して喧嘩もできるんだと…」
柚子は困ったような顔で手を振りながら答えた。
「可愛いことを言ってくれるね、ゆずちゃんは。
優も二十歳の頃はこんなふうに純粋だったな」
「潤先生、それって… 今は純粋じゃないってこと?」
深沢が思い出すようにしみじみ言うと、今度は優が頬を膨らませた。
「違うよ。 優は今でも純粋だけど、それに加えて大人になったってことだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。大人の素敵な女性になったってことさ」
「…何だか ごまかされたような気がするのは気のせい?」
「気のせい、気のせい」
「もうっ、潤先生ったら!」
疑い深そうに深沢を見ていた優だったが、そのうちクスクスと笑うと
つられたように深沢も笑い出した。
柚子はそんな二人を見て微笑ましく思い、羨ましくなった。
その日、初めて青山優と会った柚子だったが、TVや映画で見るよりずっと綺麗で
ほっそりとしてて、やはり人気女優だけあって華やかな人だと思った。
「優さんは大人のステキな女性です」
柚子はそう言うと 優の方を見て笑った。
「ゆずちゃんもそう思う?」
優は嬉しそうに柚子の顔を覗き込んだ。
「はい。 だから、羨ましいです。
永瀬さんは ずっと、わたしのこと子供扱いしてますから」
「そうなの?」
「はい。だから キスもまだ…」
「え???」
「え?」
「!!!」
途端に、小椋が飲んでいたビールを噴き出した。
「あっ!!!」
柚子はつい口走ってしまったことに気づいて、声を上げた。
「あっ、あの! 違います!!!
そうじゃなくて… あのっ!」
「おい、永瀬 そうなのか?」
「えー! 永瀬君、ほんとなの???」
小椋と葉子が驚きの声を上げた。
「違います!!! …違うっていうか… そうじゃなくて
あの、でも… 永瀬さんは いつも、わたしのことを ぎゅっと優しく
抱きしめてくれるから それで十分だし、すごく嬉しい…」
「………」
「かっ、かわいい…」
今度は小椋と葉子が赤面する。
優はニコニコ笑い、深沢は可笑しそうに声を上げて笑い出し
からかうような目で永瀬を見た。
「………」
思わず絶句した永瀬は 額を押さえて目を閉じた。
すると その時、何か思いついたのか 優が顔を輝かせながら言った。
「…ゆずちゃん! 永瀬さんがキスしてくれないのなら
自分からしちゃえばいいのよ!
わたしだって そうだったんだから!」
あっけらかんとした様子で言った優のその言葉は 再び、その場を
シーンと静まらせたのだった……。
年が明けた。
店内にいた客達は どっと集まって それぞれ「ハッピーニューイヤー!」と口々に
言い合い、シャンパングラスを重ね合わせた。
その集まりから少し離れた場所で、永瀬と柚子も同じようにグラスを合わせた。
きゃっ… これって オトナみたい… 柚子は嬉しくなった。
「新年おめでとう」
「おめでとうございます! あの…今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「はい…」
柚子は恥ずかしそうにうなずくと、また顔を上げて永瀬を見つめた。
散々、友人達から冷やかされ、からかわれたのに 永瀬は怒った様子もなく
さり気なく柚子をエスコートしていた。
「ゆずはあまり飲み過ぎないように」
「はい」
「今日も素直でいい子だな」
「あの… 怒ってないですか?」
「何を?」
「さっきのこと… やっぱり、怒ってますよね?」
「怒ってないよ。
それより、ゆずの本音が聞けて興味深かった」
「そっ、それって…」
「そんなに キスがしたかったのか…」
「ちっ、違います!」
「今、してみる?」
「だっ、だめです! こんな所で… え…? …」
真っ赤になって 必死に首を振る柚子が見えてないのか ゆっくりと永瀬は
彼女に顔を近づけてくる。
!!!
柚子は咄嗟に目を瞑ると 一気にグラスのシャンパンを飲み干した。
途端に柚子は ゴホゴホッと激しくむせ返ってしまい、慌てて胸を何度か叩いた。
「ばかだな、一気飲みなんかして… 大丈夫か?」
永瀬は柚子の背中をさすると、屈んでいる彼女の顔を覗き込んだ。
「だっ、大丈夫です…」
「座って水を…」
目に涙までためるほど苦しそうな柚子を見て、永瀬はその肩を抱くと
カウンターの方に連れて行った。
「ごめんなさい…」
「ゆずは キスよりもシャンパンが好きなんだな」
「ちっ、違います!」
「新年早々、落ち込むな」
「だから違いますって!」
「いいよ、無理しなくても」
「永瀬さぁんーーー!」
柚子は必死で永瀬をなだめ、永瀬は可笑しそうに口元に笑みを浮かべながら
寄り添うように歩いて行った。
海岸に下りる途中、石畳の階段で 永瀬と柚子は日が昇るのを待っていた。
下の海岸は初日の出を見ようと、かなりの人で賑わっていたが 二人がいる周辺には
他に誰もいない。
時折、海から冷たい風が吹いてきて、柚子はぶるっと震えてしまう。
「寒い?」
「少し…」
寒さで鼻先を赤くした柚子を見て、永瀬はふっと笑うと 彼女を引き寄せて
後ろから自分のコートの中に包み込んだ。
「あっあの…」
突然の出来事に 柚子は驚いて声を上げてしまい、思わず身体を強張らせた。
だが、柚子は背中に永瀬の温もりを感じると 次第に全身の力が抜けていく。
「永瀬さん…」
やわらかな吐息とともにこぼれた柚子の声を聞きながら 永瀬はその髪に顔を埋める。
甘くて優しくて、あどけない少女の香り…
ふわふわのマフラーに隠れたその白いうなじに唇を寄せてみたい… そんな気もした。
その時、海岸の方で一際、歓声が上がった。
初日の出の瞬間だった。
金色のヴェールをまとった太陽が ゆっくりと昇り 水面にゆらゆらと映り
海岸から眺める初日の出は きらきらと眩しく輝き出した。
「…わぁ! きれいーーー!」
感激した柚子は歓声を上げた。
「わたし… 海で初日の出を見るなんて初めて!」
永瀬の腕の中ではしゃいでいた柚子は ふと、彼が黙っているのが気になって
その顔を見ようと身体を回した。
息がかかるほど近くに永瀬の顔があって、柚子はドキッとした。
「初めてのことが多くて 楽しそうだな」
永瀬はそう言うと 口元をほころばせた。
「はい、すごく楽しいです」
「じゃあ、もうひとつ 初めてのことを…」
「え…?」
シャンパンゴールドの朝陽の中で 目を丸くした柚子の小さな唇に
初めて やわらかなキスが降りてきたのは その後すぐのことだった……。