-15- チョコレートよりも甘い唇
永瀬聡は物書きを生業としている。
だから言葉に対して敏感だ。
かつて 彼の担当だった女性編集者が言った。
“わたし、こう見えても力持ちなんです”
荷物持ちは任せてくださいと 顔を輝かせて張り切る彼女に対して 永瀬はつい
反応して 期待を裏切るようなことを言ってしまった。
“こう見えても? それはあなたが華奢で、か弱そうに見えるのに 実は力強いという
意外な事実を僕に伝えるための言葉ですか?”
…よせばいいのに… 誰かが言ったことの ほんのちょっとした言葉のあや、のような
ものに反応して つい憎まれ口をたたいてしまう。
もし、あの時
“そうなんですか? 見かけと違って逞しそうで良いですね”などと言って、優しく
笑いかけていたら 彼女との関係はまた違っていたのかもしれないと永瀬は思う。
でも、自分の性格はなかなか変えられない。
おそらく今の編集者にも疎ましく思われているのだろう。
だから 柚子が言ったことに対しても つい反応して構いたくなってしまう。
永瀬にからかわれた柚子はすぐに動揺して困ったような顔をする。
頬をうっすらとピンクに染めて、慌てて言い返す柚子を見るのが楽しくて、とても
いとおしくなって、永瀬はいつまでたってもやめられない。
そしてまた 最近になって 可愛い柚子をからかうには打って付けの出来事があって
永瀬にとっては 楽しみがひとつ増えた。
永瀬の悪い癖はなかなか直りそうもない。
* * * * *
日曜日の相原家のキッチンには甘い香りが広がっていた。
柚子はボウルに入ったチョコレートを湯せんで溶かしながら ゴムべらでかき混ぜる。
「なめらか~!」
彩は ボウルの中のとろりとしたチョコレートを見て 顔を輝かせた。
「これを さっき作ったガナッシュにコーティングして、ココアパウダーをまぶせば
トリュフの出来上がり~!」
「へぇ~、意外と簡単なのね」
「だって初心者向けのレシピだもん。でも、シンプルで美味しそうでしょ?」
「そうね。叔父ちゃんにはこういうのが合ってるかも」
「高級チョコレートは高くて買えないから 作ってみようかなと思って」
「いいじゃない?」
「永瀬さんは甘いものが苦手なんだろうなと思ってたんだけど そうでもないみたい。
まあるいチョコをつまんで食べる姿を想像したら 何だか…
ふふっ… 可愛いよね~!」
柚子はうっとりとした表情を浮かべると ボウルをぎゅっと抱きかかえた。
「もう~、かわいいのはゆずの方よーーー!
ホント、けな気で素直でかわいいね! だから、叔父ちゃんもゆずに夢中なのね」
「夢中なんて… そんな… 相思相愛、だけど… ね」
「きゃ~ん、ゆずってば 何のろけてるのよー! その幸せを少しは分けて欲しい!」
「彩だって、このチョコを山下君にあげるんでしょ? ハッピーバレンタインじゃない!」
「そうだけど~、でも ゆず達には負けるわ」
「何が?」
「最近のゆずと叔父ちゃん… あれは何なの?」
「え?」
「所かまわず、抱き合って… 金曜日だったかな、大学の近くでも…
あれはかなり目立ってたわよ~?」
「あっ、あれは」
「おとといの金曜日って 例のプチ同窓会があった日だよね。 ゆず、行ったのよね?
どうだった? あの日、叔父ちゃんが送ってくれたの?」
「そうなの。わざわざ大学まで迎えに来て お店まで送ってくれて…
でも、それだけで終わらなくて。 それは、前にわたしが言ったことが原因なんだけど。
それで 金曜日は大変だったの~」
「それだけで終わらなかったって… かなり意味深ね。
何があったの! やっぱり叔父ちゃんがやきもち妬いたんでしょ?」
「え?」
「だから わたし、ゆずに行くように勧めたんだよ!
叔父ちゃんも嫉妬することがわかったでしょ?」
「彩ったら… それであんなこと言ったんだ」
「そうよ。 で、それで 何があったの?」
柚子から何とか聞き出そうと 彩はわくわくしながら柚子に寄り添った。
それが…ね、柚子はそう言うと小さなため息をついた。
二日前の金曜日。
車から降りた永瀬は つかつかと足早に近づくと 道路わきに佇んでいた柚子の
腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。
あっ… 小さな悲鳴を上げた柚子は そのまま永瀬の両腕に包み込まれた。
「なっ、永瀬さん?」
公衆の面前で、しかも柚子が通っている大学の近くで いきなり抱きしめられて
柚子はかなり焦って じたばたと手を動かした。
「永瀬さん、やめて…」
「どうして? いつでも抱きしめていいって言ったのは誰だった?」
柚子は真っ赤になって抗議するが、永瀬は平然とした顔で逆に訊いてくる。
「そっ、それは」
「他の女には指も触れない代わりに ゆずのことは いつでもこうしていいんだろう?」
「それは ばっ、場所を考えないと!」
「そんなことひと言も言わなかった」
「あの、でも…」
情けない声を出して 困り果てた柚子を見て なぜか永瀬は柚子を抱いていた腕を
解くと満足そうな笑みを浮かべた。
「永瀬さん?」
「わかった、とりあえず 今はここまでにして 行こう」
「行こう…って、どこに?」
「今日は中学の同級生と会うんだろう? 彩から聞いたんだ」
「え?」
「…北川君に誘われたらしいね」
「北川君のこと覚えてるんですか?」
「もちろん。 一度会った人は忘れない。… 特に彼のことは」
「え?」
柚子は思わず永瀬の顔を見つめた。
永瀬はひんやりと不敵な笑みを浮かべている。
「あ…の…」
動揺した柚子は それ以上何も言えなくなってしまって口をつぐんだ。
…これって もしかして… やきもち妬いてるの?
驚きを隠せない様子の柚子に気づかないのか、それとも平静を装っているのか
永瀬は少しも表情を変えることなく 車の助手席のドアを開けた。
「…そんなことがあったんだ…」
柚子の話を聞いていた彩は目を丸くし、そして さらに期待して柚子に詰め寄る。
「でも、それだけじゃ終わらないよね? 叔父ちゃんがお店まで送って、その後は?」
勘が鋭く、永瀬のことを知り尽くしている彩は まだまだ何かあると思っている。
「それが… お店に着いて またいつものように助手席のドアを開けてくれて
そこは やっぱり紳士的でステキなんだけど… わたしが車から降りたら
また、その… 抱きしめられちゃって…」
「きゃ~!」
「お店のまん前だったから… どっ、同級生の子達に見られちゃって…
ちょうどその時、北川君も来たばかりで… 呆然としてたの~!」
「…やられたわね」
「え?」
「叔父ちゃんにまんまとやられたってことよ。
きっと北川君が来たのに気づいて わざとそんなことしたのよ!」
「そっ、そうかな」
「そうよ」
「それって… やっぱり、永瀬さんが北川君にやきもち妬いてるってことなのかな」
「そうよ、だから言ったでしょ! 叔父ちゃんも嫉妬してるのよ」
「そうなんだ… え… どうしよう」
「…何、嬉しそうな顔してるのよ」
「え? だって… 永瀬さんが嫉妬なんて… 何だか嬉しいような…」
「………」
頬をピンクに染めて喜んでいる柚子を見た彩は 呆れてため息をついた。
「でも、ゆず? 叔父ちゃんの その、やたら抱きつく行動は 当分続くかもしれない」
「え? そうかな… あ、でも…」
「でも それでもいいって?」
「きゃ~、彩ったら何言ってるのーーー!」
「図星…だね?」
二人がきゃあ~!っと叫んでいると、そこへ柚子の母親が買い物から戻って来た。
「どうしたの? 何だか楽しそうね」
「あ、おばさん! お帰りなさい。お邪魔してまーす」
「あら、彩ちゃん いらっしゃい。 ふふ、彩ちゃんも手作りチョコを渡すの?」
「あ、はい。一応… あげないと、彼がいじけるので」
「ふふ、いいわね~。 ゆずはね、初めてなのよ。バレンタインデーでこんなに
大騒ぎをするのは。 今まで男の子の話とか ほとんどなくて…友チョコばかり
だったのにね。今年はわたしまでドキドキするわ~!」
「なんで、お母さんまでドキドキするのよ…」
柚子は不満そうにぼやくと頬を膨らませた。
「だってステキじゃない?恋する気持ちって… 二人とも楽しそうだし…
そうだわ、彩ちゃん。今日 お夕飯、食べていかない? お鍋の材料をたくさん
買ってきたの」
「え? いいんですか?」
「ええ。人数が多いほうが美味しいでしょ?
そうだわ! 永瀬さんもお呼びして… お忙しいかしらね?」
「そんなことないです。ちょうど連載が終わって、今は時間があるみたいです」
…だから、ヒマを持て余して、ゆずのことをかまって遊んでるのよね… 彩は思った。
「え… 永瀬さんも呼ぶの?」
彩と理沙子が盛り上がってる中、柚子は戸惑ったように言った。
「あら、ゆずは嫌なの?」
理沙子は珍しいこともあるわね、と怪訝な顔をする。
「いや…ってわけじゃないけど、その… 今の永瀬さんは…」
なぜか赤くなって、口ごもる柚子を見て 彩はすぐに感づいたのか ぱっと顔を輝かせた。
「ああ、そうね。最近の叔父ちゃんは すぐ抱きつく…」
「彩!!!」
柚子は慌てて彩の口を手で塞いだ。
むぐむぐしている彩を必死で抑え込みながら、柚子は引きつった笑いを浮かべていた。
「ゆず?」
家の前で車から降りた永瀬は 門の所で佇んでいる柚子を見かけた。
「寒いのに外で待ってたのか?」
「永瀬さん」
柚子は恥じらうような笑みを浮かべて 永瀬を迎える。
「ばかだな。こんなに冷えきって…」
永瀬は柚子の頬を両手で包み込んだ後、そのまま彼女の身体を抱き寄せた。
「だって… そうしないと きっと永瀬さんはお母さんの前でも こうやって
抱きしめるでしょ?」
「だから、家に入る前に抱きしめて欲しいと?」
「そっ、そういうわけじゃ…」
「わがままだな、ゆずは」
そういいながらも永瀬は嬉しそうに柚子の肩を抱くと、聞扉を開けて玄関に続く縁石の
アプローチを歩き出した。
「じゃあ、ゆずの言うとおりに…」
途中で立ち止まった永瀬は、また柚子を抱きしめた。
「もうっ、永瀬さんったら…」
柚子は 一瞬、困ったような顔をするが すぐに嬉しそうに永瀬の胸に頬を寄せる。
永瀬は柚子のやわらかな身体を抱きしめて、その髪に顔を埋める。
「…うん?」
不意に永瀬が声を上げたので、柚子は不思議そうに顔を上げると
間もなくやわらかなキスが降りてきて 柚子の唇は塞がれてしまった。
「んんっ…!」
突然のキスに柚子は驚いて、慌てて永瀬から身体を離そうとしたが、彼の力は強くて
逃げられそうもない。
「なっ、永瀬さん」
「…チョコレートの香りがする…」
「え???」
柚子の髪と唇は いつもと違う香りがする… 永瀬は首を傾げた。
「こっ、これは さっき その辺にあるチョコを食べたせいで…
べつに、明日渡すチョコの味見をしたわけじゃ…!」
「………」
「しっ、しまった!」
思わず言ってしまったことに気づいて 柚子は慌てて口を押さえた。
明日のバレンタインデーに 永瀬さんに渡そうと思って内緒にしていたのに…
柚子は焦って首をぶんぶんと振った。
「そうか…」
永瀬はひとこと言うと、思わずふっと笑ってしまった。
「あの、永瀬さん 今のは聞かなかったことに…」
もじもじしながら言う柚子を見た永瀬は またくすくすと笑い出し、困惑顔の彼女を
また腕の中に包み込み込んだ。
「そうだな。 聞かなかったことにして 明日まで楽しみにしてるよ」
「永瀬さん…」
「その代わり… 今日はもうひとつのチョコレートを貰うことにする」
「え?」
もう一度… 永瀬は低い声で囁きながら柚子に顔を近づけると そっと唇を重ねた。
多分、明日 貰うはずのチョコレートよりも もっと甘くとろけそうな柚子のキス…
永瀬は そのやわらかな唇を味わいながら 何度もキスを重ねていた……。