-21(終)- 愛しています
蜂蜜色の夜は終わりを告げて かわりにレモンソーダのような淡い日差しが差し込んできた。
深く閉じられた瞼に眩しい光を感じたのか 猫のように丸くなった柚子の透きとおるように白い腕が
ゆっくりと動き出し、まるで何かを探すようにほっそりとした指が 純白のなめらかなシーツの上を
さまよい始めた。
一晩中 ずっと隣にいたはずの温もりが感じられなくて ぼんやりと目を開けた柚子が
永瀬さん、どこ? …そう言おうとした時、すっと手が伸びてきて彼女の頬をそっと撫でた。
昨夜からずっと抱きしめてくれた逞しい腕も、髪と頬を撫でてくれた繊細な指も、額や唇に押し当てられた
熱いキスも もう決して忘れることはできないと思えるほど 柚子はその感触をはっきりと覚えていた。
「永瀬さ…ん?」
「おはよう、ゆず。 やっと起きたな」
「おはよう… ございます」
「なかなか目を覚まさないから どうしようかと思ったよ」
「え…」
「疲れた?」
「え? あっ… はい。 いえっ、大丈夫で…す」
途端に真っ赤になった柚子の目の前にいつもの端整な顔が現れて、彼女はどきっとして慌てて起き上がったが
自分が何も身に着けてないことを思い出して、慌ててシーツを胸の上まで引っ張り上げた。
眼鏡をしていない永瀬は 明らかにそれを楽しんでいるように目を細めると ベッドに腰を下ろし
まだ ふわふわして頼りなげな柚子の身体を引き寄せて腕の中にくるみこんだ。
あっ…と小さく叫んだ柚子の目の中に飛び込んできた真っ白なシャツが眩しくて、思わず彼女は
瞳を閉じた。
「永瀬さん…」
昨日までとはどこかが違う、しっとりと甘えたように恋人の名前を呼ぶ柚子の声が永瀬の耳元で響く。
「ずっとこうしているのも悪くないが… これから出かけなくちゃいけないんだ」
いつもよりずっと優しくて愛情に満ちた永瀬の低い声が柚子の頭の上で聞こえる。
「はい… わかってます。
…あの、編集の結城さんとはずっと一緒なんですか?」
「いや、彼女は今日の夕方には東京に戻ることになっているが…
もしかして… また妬いてるのか?」
「ちっ、違います!」
慌てて否定する柚子を見て 永瀬は思わず笑ってしまった。
永瀬は滑らかな柚子の背中に手を当てて何度か優しく撫でると、毛布で彼女の身体を
包みこんでまた抱きしめた。
ふわりとやわらかな温もりが全身に伝わって 柚子は気持ち良さそうに目を閉じた。
「一人で帰れる?」
永瀬は柚子を気遣うように訊いた。
「大丈夫です、一人でここまで来たんだもの」
「そうか。 今回、ゆずは黙って来たから 帰ったほうがいい。
どうせ彩に乗せられたんだろうけど お母さんが心配してるはずだ」
「はい、帰ったらすぐにお母さんに謝ります。
あの… 永瀬さん その… いつかまた連れて来てくださいね」
「え?」
「あの、どこでもいいですから…」
「そうだな」
「わあ… 何だか昨日よりもずっと気持ちが軽くなりました」
顔をぱっと輝かせて笑う柚子を見て 永瀬は安心したようにうなずくと、抱いていた手を解いて
ゆっくりと立ち上がった。
腕時計をはめて ジャケットを羽織る永瀬の仕草をうっとりと眺めていた柚子だったが
そのうちに何か思い出したのか、はっとしてその綺麗な背中をじっと見つめた。
「…永瀬さん」
思わず柚子は声をかけていた。
うん?とまだ背中を向けたまま返事をする永瀬に 柚子は微笑みかけた。
「わたしも… 愛しています」
今度はゆっくりと振り向いた永瀬はふっと笑い、そして 呆れたように首を振った。
「やっぱり… 聞こえてたんじゃないか」
「あ…」
慌てて口を手で押さえた柚子を見て永瀬は笑い出した。
「昨夜言ったことは訂正する。 …ゆずはまだまだ子供だ」
柚子はピンクに染まった頬を膨らませると 恥ずかしそうにシーツで顔を隠した。
だから今度は気づかなかった。
やわらかく微笑んだ永瀬の唇が 声を出さないまま昨夜と同じ言葉を口にしたことを……
* * * * *
-2年後-
ガラスウォールから眩しい日差しが差し込む部屋で 永瀬は出版社の編集者と話をしている。
「では、次回作は連載ではなく書き下ろしというとで… いやあ、楽しみですね。
読者も期待してますよ。でも、その後は一年間の休業とは… どこかに行かれるのですか?」
「あ、いえ… そうではなくて、個人的な理由で 一時、休むだけです」
「そうなんですか… 残念ですね。 でも、先生 復帰なさった時には ぜひうちの出版社で…」
「そうですね。 …あ、ちょっと失礼」
話の途中で 不意に永瀬はソファから立ち上がるとドアに向かって歩き出した。
「ゆず、準備はできたのか?」
「はい、どうですか? 似合います?」
ドアから顔を覗かせて様子を伺っていた柚子は 薄紅色の桜柄の着物にエンジの袴姿で
永瀬を見つけると顔をパッと輝かせ、得意そうに袖を上げてその場でくるっと回って見せた。
「う~ん、やっぱり まだまだ七五三だな」
永瀬はそう言いながらも、眩しそうに柚子を見つめた。
「もうっ、今日は大学の卒業式なんですよ。わたしだって22歳になったし それに… 」
「それに?」
「それに… 奥さんになったし…」
「奥さんになっても、まだまだ子供だな」
「もう… 赤ちゃんが意地悪しちゃだめって言ってますよ」
柚子は上目遣いで永瀬を見上げるとくすくす笑いながら ふっくらとしたお腹に手を当てた。
「もっとしっかりしろって言ってるんじゃないのか?」
永瀬はからかうように言うと 柚子の手に自分の手を重ね、妻のお腹を撫でた。
「そんなことないです! もう、いいです。わたし、そろそろ行きますね」
諦めた柚子はくるっと背を向けると、勢いよく駆け出そうとした。
「こらーー、走るな!」
「あっ」
永瀬に注意されて、柚子は慌てて立ち止まり振り返ると肩をすくめた。
「いけない、つい…」
「まったく… 危なっかしくて見てられないな」
「ごめんなさい」
「やっぱり卒業式の会場まで送っていく」
「え? いっ、いいです!」
「遠慮しないで。転んだらどうするんだ」
「でも、まだお仕事中じゃ… 秋山さんが待ってます」
「大丈夫。彼とは長い付き合いだから、どうにでもなる」
永瀬はそう言うと、さっきから呆気に取られていたS出版の編集者、秋山の方を見た。
「あ、はい。もう打ち合わせは終わりましたので どうぞ、先生 奥さまと
お出かけになってください」
秋山はソファから立ち上がるとにこやかに答えた。
「きゃ~、奥さまだって… どうしよう 永瀬さん」
柚子は恥ずかしそうに頬を染めると 永瀬の腕に両手を絡ませた。
「さっき自分で言ったじゃないか」
「そうだけど… やっぱり、まだ慣れないの」
「まだ自分は子供だと自覚してるんだな」
「違います! もうーーー!」
柚子がほんのりピンクに染まった頬を膨らませて永瀬を睨むと、彼はその頬を軽く
突っ突きながら面白そうに目を細めて笑った。
「はいはい、いつまでもじゃれ合ってないで 早く出かけないと式に遅れるわよ!」
そこに美和が呆れたように顔を出した。
「叔父ちゃん、彩も一緒に送ってね」
柚子と同じように 美和に着付けしてもらい袴を装った彩も口を挟んだ。
「わあ、彩 すごく可愛いーーー!」
柚子は歓声を上げた。
「ふふ、ゆずも可愛いよ。とても人妻には見えない。わたしたち、きっと目立つね。
ステキなゆず叔母さんと その姪だもの!」
「叔母さん…」
柚子は引きつったように笑うと 彩の隣でくすくす笑っている美和を見た。
「おばさんも… おばさん、じゃなくて、お義姉さんでしたね」
「あら、ゆずちゃんにお姉さんなんて呼ばれたら わたし…ますます若くなっちゃうわね。
…何? さと君、何か言いたいことでも?」
「いや、何でもない。 …じゃあ、そろそろ行こうか」
永瀬は美和の追及を逃れようと 柚子の手を取り促した、
「あ、叔父ちゃん 彩もーーー!」
永瀬に手を引かれて歩き出した柚子の後を 彩も慌てて追っていく。
賑やかな3人がいなくなり、残された秋山は呆然としていたが すぐに美和に笑いかけた。
「…永瀬先生、お変わりになりましたね」
「そうでしょ? まだまだ無愛想だけど、以前よりずっと笑うようになったの。
やっぱり可愛い奥さんが傍にいて笑わせてくれるからよね」
「そうですね。 それにしても柚子さんは今日、卒業式ですか。
半年前の結婚式の時も思いましたが… やっぱり若いなあ!」
「ええ、この夏には母親になるなんて わたしも信じられないの。
…そうだわ、秋山さん 弟が休業する本当の理由をご存知?」
「それが… 先生ははっきりとおっしゃってくれないので」
「やっぱり? だって、まさか育児休暇だなんて言えないでしょ?」
「え、そうなんですか?」
「そうよ、信じられないでしょ?
生まれてきた赤ちゃんを笑顔であやすさと君… なんて、考えられないわあ」
「それはまた意外な… でも、納得しました」
「そう? ということなので、また 復帰した時にはよろしくお願いしますね」
「もちろんです」
「ありがとうございます。 じゃあ、これからもお世話になる秋山さんに
美味しいお茶を… もう一杯いかが?」
「はい、いただきます」
美和はにっこり笑うといそいそと立ち上がった。
「気に入らないな」
「え?」
「この写真… ゆずの肩を抱いてる男は誰だ?」
「えっと… 同級生の三浦君です」
「どこかで見た顔だが… 馴れ馴れしい奴だな」
「卒業式の日で、もう最後だからですよ」
「最後だから人妻の肩を抱いてもいいと?」
「きゃ~、人妻なんて」
「違うのか?」
「そうですけど…」
「これは削除」
「あっ…」
「何か問題でも?」
「いえ…」
「これも、これも‥ 何だ? どうしてこんなに ゆずの周りに男子が?」
「だから、最後だからです」
「全て削除するか」
「そんなことしたら 記念の写真がなくなっちゃいますよ」
「そんなことないさ」
「もう、永瀬さんったら… またやきもち妬いてるんですか?
しょうがない人ですね。 …あ… 」
「どうした?」
「今、赤ちゃんが動いたの! 触ってみてください」
「え?」
「永瀬さんの声に反応したみたい… やっぱり赤ちゃんも永瀬さんのこと好きなのね」
「当然だ」
「女の子かもしれませんね」
「いいね。 ゆずに似てれば尚更いい」
「え? わたしは永瀬さんにそっくりな男の子がいいです。
あ、でも 意地悪でわがままな子だったらどうしよう…」
「………」
「でも きっと可愛いですよね。
…永瀬さん? どうかしました?」
「何でもない。 …ところで、ひとつ提案があるんだけど」
「え? 何ですか?」
「その、永瀬さん…っていう呼び方 そろそろやめないか?」
「え?」
「何だか他人行儀で 親しみが感じられない」
「じゃあ、何て呼べば?」
「名前で呼んでみて」
「え??? そっ、それは恥ずかしいーーー!」
「恥ずかしい…って」
「じゃあ、もうすぐ パパになるから パパさんっていうのは?」
「僕はゆずの父親じゃない!」
「じゃあ… さと君?」
「却下」
「もう、わがままなんだから… あ、じゃあ あなた…?」
「え…」
「赤くなった…」
「そんなことない」
「ふふっ… ムキになって、かわいいーーー!」
「やめてくれ」
「あなたーーー!」
「ゆず!」
「…やっぱり、それも恥ずかしいから… 永瀬さん、かな?」
「………」
「いいでしょ?」
「まあ、いいか…」
「ふふっ… 永瀬さん、愛しています」
「知ってる…」
「マイガール」を読んでくださった皆さんへ
最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。
「抱きしめたい」で航平の恋敵として登場した永瀬も38歳になりました。
そう、彼と同い年です(笑)
離婚、失恋という悲しい経験をした永瀬も やっと幸せになって これで私も
安心しました^^
頑固で冷めた性格の永瀬に かなり年下の女の子を絡ませてラブコメディーにしたら
面白いのではないかと思い、始めた創作ですが いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたらいいのですが…
今回もステキな画像をたくさん作ってくださったnimoさん、ありがとうございました。
いつもいつも楽しみにしていました。
美しく上品なnimoさんカラーに癒されました^^
そして最後に…
いつも温かいメッセージをくださった皆さん、ありがとうございました。
創作をしている間、いろいろなことがありましたが 何度も励まされました。
感謝しております。
今回もひと言メッセージを頂けると かなり嬉しいです♪
お待ちしています!
ありがとうございました。
aoi