「おはようございます」
「やぁ、美尋ssi、おはようございます。今日も早いね」
いつものように保全のおじさんと笑顔で挨拶を交わした後、私はエレベーターで地下に向かった。
地下の書庫は、しんとした静寂を湛え、深い海のようだった。
あれから、数週間・・・・・
ようやく図書館はリニューアルオープンにこぎつけたが、地下では相変わらず蔵書の整理が続いている。
館長は、すでにあきらめの境地で、「美尋ssi、上はなんとか回っているようだから、ゆっくりと片付けていきましょう。」と穏やかに笑った。
同じような問題は、このあたりの図書館はどこも抱えているらしく、みんなが敬遠する書庫での整理を進んでする私は、よほどの整理好きだとでも思われたのか、分館や他の図書館からも応援を頼まれた。
どこの書庫も半地下や、地下にあることが多く、シフトをはずれ、日替わりであちこちの図書館を巡る私は、まるで深海を回遊する魚のようだ・・・と我ながら苦笑いを洩らしてしまう。
深い書物の森に隠れるように、かさかさと紙の音を聞きながら、私はまるで何かから逃れるように仕事に没頭した。
こうしていれば、世間の喧騒も遠い国の出来事のように感じられるから・・・・
それでも・・・・
私は、ふと手にした絵本に目を落とした。
タイトルは「人魚姫」
表紙の絵も掠れて、すっかり古びている。
私は、表紙をそっと撫でながら、多くの利用者で賑わう階上の閲覧室を思った。
それでも、人魚姫は海上を目指したのね・・・・
ここにいれば、穏やかに暮らせただろうに・・・・
辛くても、苦しくても恋を選んだのね。
傷つくことを恐れずに、何を犠牲にしても、ただ愛しい人を目指した。
そして、愛する人の幸せを願い、海の藻屑に・・・・・
それが、「愛する」ということだろうか・・・・
ふと、昔、読んだ本の中のフレーズが急に私の頭に浮かんできた。
『恋をするということは、自分のためを思い、愛するということは相手のためを思うこと』
恋の意味さえ、まだしっかりと掴みきれていない今の私では、この言葉の本当の意味は、まだわかりそうもなかった。
「お疲れ様でした。気をつけて。」
保全のおじさんにそう見送られながら、私は仕事を終え図書館をあとにした。
外にでると、もうすでに夕闇は濃く、すっかり季節が変わっていた。
私の気づかないうちにも、確実に時は流れている・・・
そんな想いをうっすらと抱きながら、バス停に並んだ。
今日の仕事先は、市街地を離れた小さな分館だった。
がたがたとバスに揺られながら、見上げた窓の外には、あの日・・・お店の最後の日に見たような綺麗な月が輝いていた。
私はそっと目を閉じた。
どのくらいそうしていたのだろう。
気がつけば、いつのまにか、バスはなじみの場所を走っていた。
ここは・・・・祖母の入院していた病院の近くだ。
そう気づいたとたん、あのBarが目に入った。
Bar bluema・・・・
ジノssiとあの女優さんの密会の場所・・・・・
私は、頭を一振りすると、こみ上げてくる感情を引き剥がすように、病院での日のことに想いをはせた。
あれは、・・・・そう祖母が退院する前日のことだ。
祖母の入院していた国立ソウル第一病院は、ここソウルでは一番との評判で、特に緊急や難病患者の集まる病院だといわれていた。
たまたまお店の常連さんがこの病院の関係者で、倒れた祖母をあれこれ気遣ってくれたので、スムーズに入院できたいきさつがあった。
そんな、いろいろな感謝の意味を込めて、祖母の退院の前日に祖父はその病院で一日caféを開いたのだ。
担当医や、お世話になったナースの方々、入院中に仲良くなった患者の方や、そのご家族・・・
祖父は心を込めて、珈琲を振舞った。
もちろん、どなたでも歓迎の無料の一日caféだったが、きっと祖父自身、いろいろ思う所があったのだろう。
長い介護に疲れた家族の方・・・ハードワークで余裕のない張り詰めた顔をしているナースの方・・・辛い宣告をしなければならなかったり、つい今しがた、どなたかを見送ったドクターの方・・・
そんな方々に、私は祖父の淹れた飛び切り美味しい珈琲をお出しした。
一口飲んだ瞬間に、ほぅ・・と感嘆のため息が出るのを、祖父はにこにこと見守りながら、いつのもように、お客様のお話に黙って耳を傾けていた。
やがて、いろんな方々がやってこられた。
食事制限のある方にはノンカフェインの珈琲をお出ししたり、また、術後でなにも口に出来ない方が、「珈琲の香りだけで癒されますよ、まるで、アロマテラピーだ」と嬉しそうに笑ってくださる笑顔を見ていると、私まで元気をいただいた気になった。
記念にと写真を撮る人も何人かいて、カメラを構えるその姿が、私に鈍い痛みを与えた。
やがて、病棟の子供たちもものめずらしそうに、覗きに来た。
そのまだ幼くあどけない表情に、胸が痛んだ。
こんなに小さな体で病と闘っているのかと思うと、ただただ胸が痛み、小さな椅子を用意しながらも胸が締め付けられる想いだった。
そんな私の横では、賑やかな笑い声も聞こえ、ドクターと患者さんが仲良く並びながら、珈琲を口にしている側で、ナースの方々の笑い声も響いた。
「ああ・・先生、生き返ったようです。」
「まさしく妙薬ですね。」
「冥土の土産にもう1杯」
「ああ、これで、今日の夜勤も耐えられるーーーー」
たわいもないおしゃべりの花が、患者さん同士の間で咲き、子供たちもこの日のために祖父が用意した特製の珈琲牛乳や、ゼリーを、はしゃぎながら飲んだり食べたりしていた。
ちょっと雑然とした温かな空間・・・・懐かしいこの空気・・・・
私がずっと浸っていたあのお店の空間が、そこには広がっていた。
そう・・・あそこは、私の「居場所」だった・・・・・まぎれもなく・・・
がたん!
そんな私の追想が、バスの急な揺れに破られた。
体を支えながら、窓の外に広がる暗がりをぼんやりと眺める。
まるで、その先に、お店の明かりが見えるような気がして・・・
でも、そこには、ただ平坦な夜があるだけだった。
それでも、あの日以来、私のまぶたの裏に、あの日の光景が・・・あの人たちの笑顔が焼きついて離れない。
なにか・・・なにか、私にもできることはないだろうか・・・・・
私の胸にそんな想いが生まれてくる
お店を閉めてしまったこと・・・
その事は、思っていたよりも、私に打撃を与えていた。
自分では認めたくなかったが、私は、相当こたえていたようだ。
ずっと、私の人生の中にあったあのお店・・・珈琲店ヒロ・・・・
「キャーーー!!!かっこいいーーーーー!!」
そんな私の追慕を、突然バスの中に響いた大きな声が破った。
ちょっと驚いて、声のしたほうを見ると、女子高生らしき女の子が二人、何かの雑誌を見て、黄色い声を上げていた。
「ちょっと、見てよ!これ!!」
「うんうん。イ・ソンギって超かっこいいよねーーー」
「もうすぐドラマが始まるよねっ」
「うわーー楽しみーーー」
「ね、ミン・ソヒョンも超イケメンじゃない?」
「だよねーー、そういえば、隣のクラスのヒョンジュンにちょっと似てない?」
「えーーー!?そうーー?」
「ちょっとだけだけど・・・・」
「あれーー、もしかしてーーーー?!」
「違うわよ!ほら、ソン・ジェイン!超イケてるーー!彼ももうすぐ映画が始まるよね」
「あーー、なんか、妖しいーーー」
「違うってば!」
「ま、いいけど。あーーでも、ソヒョンもジェインも本物に会いたいなぁーーー」
「いえてるーーー」
雑誌を熱心に捲りながらも、きゃぁきゃぁとはしゃいで、笑って、興奮しておしゃべりに興じる女の子たちを私は微笑ましく見ていた。
私にもあんな時代があったわね
友達と大はしゃぎで、映画館をはしごした。
そう、あれも、一種の「恋」よね。
決して、叶うことはないのかもしれないけど、それでも恋する気持ちは止められない。
たとえ、相手がスターだろうと、隣のクラスの同級生だろうと・・・
恋する気持ちに変わりはないわね・・・・
淡いため息をついた私の耳に、「アン・ヨンヒ」という名前が飛び込んできた。
「そうだ。ジェインって、前にアン・ヨンヒと付き合ってるって噂にならなかった?」
「えーー、でも、アン・ヨンヒは、なんとかって言うカメラマンと極秘結婚したんでしょう?」
「マジでーーーー!あれって、ホントなの?なんか写真集の撮影っていう話もなかった?」
「でもさぁ、まだ二人とも帰ってきてないみたいだし・・・いくら写真集の撮影っていっても、おかしくない?」
「話題づくりって説もでてたねー。ほら、もうすぐジェインと共演した映画が公開になるじゃない?」
「だったら、逆効果じゃない?ジェインのファンの反感を買うでしょーーー」
「だよねーーー」
ずきり・・・・
私の胸が軋んだ音を立てて、波打った。
ふぅん・・・・私が書物の海を回遊している間にも、世間ではいろいろ事が起こっていたらしいわね・・・・
鋭く錆びた痛みを感じながらも、私は小さくつぶやき、ゴシップなどさも興味なさそうな顔を装うと、自分をだました。
私は、さっと席を立つと、あれこれとおしゃべりを続ける女子高生の側を通り抜けて降車口へと急いだ。
外には、壊れそうなガラスの夜空が広がっていた。
家に帰り着いて、ポストを見ると、祖父からの葉書が届いていた。
そこには懐かしい祖父の字で、こう記されていた。
「美尋、元気にしてるかい?
お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも元気にしているよ。
毎日、一緒に買い物に出かけたり、海辺を散歩したりして、のんびり楽しく過ごしている。
美尋も、一度遊びにおいで。
一緒に珈琲でも飲もう。」
文面の側には、多趣味な祖父が器用に描いた、優しい色模様の海の水彩画が添えられていた。
思わず頬が緩む。
部屋に入りながら、祖母の車椅子を押して、海辺を散歩する二人の姿を思い浮かべた。
そういえば・・・
以前聞いた二人のラブストーリーを思い出した。
あれは、まだ恋に恋する思春期の頃、祖父達がお見合いではなく、当時としては珍しい恋愛結婚だと知って、私は祖父に馴れ初めをねだったっけ・・・・
幼馴染とはいえ、何の約束も交わしていなかったという二人はどうやって結ばれたのだろう。
そんな好奇心いっぱいの私に、祖父が照れくさそうに話してくれた二人のラブストーリー
芳しい珈琲の香りとともに・・・・
「おじいちゃんたちは幼馴染だったけど、おばあちゃんは、あれで、いいところのお嬢さんだったろう?それに比べておじいちゃんはまだ学校を出たばかりの若造で・・・・好きだとも言えずにいてな・・・ただ離れたところからじっと見ているだけだったな。そうこうするうちに、おばあちゃんの両親がおじいちゃんの気持ちに気づいたんだろうな。悪い虫がつかないうちに・・と、おばあちゃんを遠い親戚の家に預けてしまってな。」
「それで、どうしたの?奪って駆け落ちしたの?」
「いやぁ・・・ただ毎日毎日、その親戚の家に行って、そこでもまたじっと見ているだけだったな。」
「見てるだけ?」
「この門の向こうにおばあちゃんがいる。それだけを頼りに、毎日バスを乗り継いで、その家に通った。それで、じっと門の前に立っていた。」
「毎日?立ってただけ?」
「今なら、ほら、何とか言ったな・・・そうそう、ストーカーとかで、捕まったかもしれんな。」
そう言って、ちょっと恥ずかしそうに笑っていたっけ・・・
結局根負けしたおばあちゃんの両親が二人の結婚を認めてくれたそうだけど・・・
「おばあちゃんの気持ちは確かめなかったの?」
「そうさなぁ・・・・男ってのは、駄目なもんでな。大切な人になればなるほど、何も言えずにいてしまう。心のどこかに、言わなくてもわかってくれると思ってしまうんだな。
勝手なもんだが、しょうがないな。」
「それで、よく毎日通えたわね。振られたらどうしようって思わなかったの?」
「おじちゃんが門の前に立つと、おばあちゃんの部屋の明かりがぽっとつくんだ。それが心の支えだったかな。」
「まぁ、奥ゆかしい二人だったのね。」
からかうように笑う私の頭をぽんとたたくと、確か祖父はこう言ったっけ・・・
「もし、あのまま振られていても、おじいちゃんは後悔しないよ。恥ずかしいとも思わない。傷ついても苦しくても、そうせずにはいられない。それが人を好きになるということかな。美尋にも、そんな恋をして欲しいよ。」
恋・・・・・・
その言葉が深い霧の中を彷徨うような、私の胸のドアをそっと叩いた。
私はもう一度、手の中の祖父の葉書を見つめなおした。
祖父の描いたこの海辺を、きっと二人は仲良く散歩しているのだろう。
そして、祖母の車椅子を押す祖父の目は、昔、祖母の窓の光を、見上げたときと同じような輝きをたたえているのだろう。
それは、きっと深い愛の中にも、消えない恋の光だ。
恋・・・・
私は、その意味をちゃんと知っているのだろうか・・・
零れ出た私の淡いため息は、淹れたての珈琲の湯気の中に、そっととけて消えていった。
そして、翌日、私は久しぶりに本館へ戻った。
「おはようございます」
「やぁ、美尋ssi、おはようございます。久しぶりだね。」
いつものように保全のおじさんと笑顔で挨拶を交わした後、私はエレベーターで地下に向かった。
地下の書庫は、しんとした静寂を湛え、相変わらず深い海のようだった。
その日、地下の書庫で黙々と働く私に、わざわざ館長が地下まで出向いてくれて、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
「いやぁ、まるでここは深い海の底のようですね」
館長は少し黴の匂いを含んだ空気を懐かしそうに吸い込んだ。
「上のほうでは情報の波が日々恐ろしいほどの勢いで打ち寄せています。でもここは余分なものは濾過された透き通った知識の海が穏やかに息づいているように感じますね。
ただ・・・」
館長は、あたりを見回しながら、言葉を止めた。
私は古い本の裏表紙を捲る手を止めて館長を見た。
「ただ・・なんでしょうか?」
「人はいずれ、上を目指します。ここで得た先人たちの知恵を携えて・・・・ただ知識を増やすことが図書館の本来の意味ではありませんね。生きていくうえで、役立ってこそ意味を成します。そのお手伝いをすることこそ、私たちの仕事ですね。辛いことや哀しいこと、困難にぶつかったときに勇気を与えたり、乗り切る知恵を授けたり、喜びや幸せについて、もう一度じっくりと考える・・・そんな場所でありたいですね。」
私はいったい、なにをしているのだろう・・・・
静かに館長が去ってから、私はじっと考え込んでしまった。
あたりを見回すと館長のおっしゃったとおり、ここは知識の海だ。
でも、ただそれを全部読んだところで、本当は何にもならないのかもしれない。
この中に書かれている喜びや悲しみ、悲劇や喜劇の中に描かれた、人間の本質を暴き出す鏡に映し出された愛や裏切りや羨望や友情や絶望や・・・・そして、希望
今、私の手の中にある、古い本・・・・
この中にも、私が学ぶべきものはたくさんある。でも・・・それだけでは十分じゃない。私はそれを生かして生きていかなくては・・・・・
突然、私のまぶたの裏に、昨日受け取った祖父の葉書に描かれた、海の景色が浮かんできた。
そして、急に、どうしてもあの写真集が見たくなった。
そう・・・ジノssiが撮った海の風景・・・
それが、どうしても見たくなったのだ。
仕事を終えると、私は階段を駆け上った。
あの人魚姫もこんな気持ちで陸を目指したのだろうか・・・
はやる気持ちで、バスに飛び乗ると、私は深呼吸をした。
そこには、もう深海の匂いはしなかった。
部屋に駆け込むと、本棚の奥にしまいこんだあの写真集を取り出してみる。
懐かしいジノssiの世界・・・・・
淡くたゆたう海・・・蒼くきらめく海・・・・残照に燃える海・・・
同じ海でも、まったく違う表情を写し撮るジノssiの世界にただ言葉もなく見入った。
私は、この写真が好きだ。
そして、ジノssiが好きだ。
そう、私は彼に恋している・・・・・
写真集を抱きしめながら、やっと本心を認めることができた自分に、溢れてくる涙を止められずにいた。
今は、ただあの笑顔が見たい。
ほんのひと時でも側にいられればいい。
たとえ、叶わぬ恋でも・・・・
それでもいい・・・たとえ、傷ついても・・・
そう・・傷ついた分だけ、優しくなりたい。
そうすれば、きっと人の痛みも感じることができると思うから・・・
今より、もっと美味しい珈琲を淹れられるようになって、いつか祖父のように、お客様がカウンター越しに話をしてくれるようになれるかもしれない。
あの病院で会った幼い子供たちの寂しさや哀しさも、ほんのちょっとでも、分かち合えるかもしれない。
祖父の淹れる珈琲のような・・・
ほんのり甘くて、少し苦くて、後味の爽やかな・・・・
ジノssiのファインダー越しに写る私は、そうありたい・・・
ジノssiの写真集を抱きしめながら、どのくらいそうしていただろう。
私は、急にいてもたってもいられない気持ちになってきた。
もう、こんな時間だけど・・・・・
お店が気になってしょうがなくなってきた。
今は、訪れる人もなく、灯りも消えて、ひっそりと静まり返っているだろうあのお店は、やっぱり紛れもなく私の人生の一部だ。
それに・・・・
最後の日に、カウンターの上にぽつんと置いたままにしてきたあのフィルムケース
ジノssiが描いてくれたあの笑顔は、きっと寂しげに曇っているに違いない。
私は、部屋を飛び出すとお店を目指した。
息を切らして、お店に駆けつけると、私は懐かしいドアの前に立った。
祖父の書いた「当分の間・・・」という張り紙をそっと剥がすと私はドアを開けた。
カララン・・・コロロン・・・
ドアチャイムが、懐かしい音色を響かせる中、灯りをつけると、カウンターの上に置き去りにされていたフィルムケースがぽつんと浮かび上がった。
あそこは、ジノssiの指定席・・・・
カウンターへ走り寄りフィルムケースを取り上げると、ぎゅっと胸に押し当ててみる。
手の中で慈しんで温めたあと、ジノssiの指定席に戻すと、フィルムケースは、ことんと優しい音をたてた。
そっとカウンターを撫でると、ようやく心が落ち着いてきた。
やぱり、私にはこのお店が必要だ。
ひとつ深呼吸をすると、私は窓を開け放って、微かに澱んだ空気を入れ替えた。
さぁっと澄んだ夜風が、私の心にも吹き込んで来た。
まずは、掃除ね。
店中をぴかぴかに磨き上げて、寂しい思いをさせてしまったこのお店に謝らなくちゃ。
店内を掃除する前に、まずポーチから綺麗にしようと、ドアを開けて外に出ると、何かがこつんと爪先にあたった。
さっき、鍵を開ける時には、気づかなかったが、何かが置かれていたみたいだった。
ころころと軽い音を立ててポーチを転がるものを目で追うと、それはいくつものフィルムケースだった。
急いで屈んで拾い集めると、その小さなフィルムケースのどれにも、顔が描かれてあった。
驚いた顔、不思議そうな顔、心配そうな顔、ちょっと拗ねたような顔、悲しそうな顔、・・・
これは・・・・・・
ジノssi?!
もしかして、このお店に来てくれたの?
驚きと衝撃で一気に膝の力が抜けた。
その場にうずくまったまま、フィルムケースを胸に抱き寄せると、涙が零れ落ちてきた。
胸がいっぱいになって、思考がまとまらない。
どのくらいの時間、そうしていただろう
私は、フィルムケースたちを、大切に大切に胸に抱えたまま、店に戻った。
ジノssiがこのお店に来てくれていたんだ・・・・
その真実だけが、まっすぐに胸に届いた。
ようやく、思考が感情に追いつくと、私はまた新しい涙を流した。
私はなんて、弱かったんだろう。
傷つくことを恐れて、逃げたんだ。
もし・・・・
もし・・・
もしも、次に会うことがあったら・・・・
笑われてもいい。
断られてもいい。
この気持ちを伝えたい。
でないと、私は前に進めない。
涙も切なさも愛おしさも愚かさも、ゆっくりとドリップしていけば、いつか美味しい珈琲になるかもしれない。
いつか、私もおじいちゃんのように、訪れたお客様が笑顔で店を後にできるような、そんな珈琲が淹れられるようになるかもしれない。
私はカウンターの上に、顔が描かれたフィルムケースをひとつずつ並べ始めた。
ことん・・・ことん・・・
並べるうちに、自然と笑みが浮かんできた。
久しぶりのお客様・・・・
ふと、フィルムケースの顔が病院の子供たちの瞳に重なって見えた。
健気でまっすぐで少し寂しげだった子供たちのあの瞳・・・
あの瞳をしっかりと見つめるためにも・・・
私は、この場所から歩き出さなきゃ・・・・
私は、ゆっくりと深呼吸をひとつすると、カウンターの小さなお客様のために、珈琲を淹れ始めた。
ここで、またジノssiに珈琲を淹れてあげたいな・・・・
今は、ただあの笑顔が見たい。
たとえ、その微笑が私のものでなくても・・・・
ゆっくりと馥郁とした香りが漂ってきた頃、突然ドアチャイムが大きな音を立てた。
こんな真夜中に一体、誰が・・・・
そう思ってカウンターから慌てて出ると、そこには、彼が・・・ジノssiの姿があった。
息を切らし、髪は乱れ、乱暴ともいえる足取りで走りこんできたジノssiの瞳には、複雑な色が湛えられていた。
そこには、困惑?・・・心配?・・・不安?・・・憤り?・・・問いかけ?・・・
数々のメッセージが浮かんでいるように見えた。
「やっと、見つけた。」
「あ・・・あの・・・」
ジノssiは早足で一気にカウンターまでやってきた。
その勢いに押されるように、私は、カウンターの中へと後ずさりした。
「店はずっと閉まったままだし、随分と長い『当分の間』だね。」
「あの・・・それは・・・その・・・」
「美尋ssiがどこの図書館に勤務しているのかも僕は知らなかった。でも、美尋ssiのおかげで僕はこんなにもたくさんの図書館のメンバーになれたよ。」
そういうなり、ジノssiはポケットに手を突っ込むと、カウンターの上に、ばらばらと何かを放り出した。
・ ・・・図書館の会員証?・・・・
驚いた顔で、何枚ものカードを見つめる私に「この国の個人情報は安全だよ。どこで聞いても、『職員の在籍についてはお答えいたしかねます』そう言われたよ。」と荒い息をついた。
・ ・・私のことを探してくれたの?
胸にこみ上げる嬉しさを押し隠して、「あの・・・入院していた祖母が退院したんです。でも、祖父と祖母は一緒に田舎へ帰ることになって・・・私も図書館の仕事が始まったのでそれでお店を閉めて・・・あの・・・私は仕事に戻ったんですけど、ずっと地下の書庫で作業をしていたんです。蔵書の整理とか・・・」と小さな声で返事をした。
その後、じっと私を見つめるジノssiの強い瞳に、次に言う言葉が見つからずに、思わず私の口をついてでた言葉は「あ・・あの・・・お帰りなさい・・・」という一言だった。
一瞬言葉に詰まったあと、ジノssiは、どさりと椅子に腰を下ろすと、ため息ともに「・・・ただいま・・・」と答えてくれた。
その後、立ち上る珈琲の香りを縫うように沈黙の時間が流れた。
いきなり、走りこんできて、一方的に詰問とも言える口調のジノssiの態度に困惑しながらも、私のことを探してくれていたという嬉しさが混在して、何を言っていいのかわからずにいた。
「あ・・あの・・・」
しどろもどろの私の言葉をさえぎるように、ジノssiは、バックから何かを取り出した。
「何から話せばいいのかわからないけど・・・とりあえず、まずはこれを見て欲しい。」
カウンターの上に置かれたものは・・・数枚の写真だった。
震える手でそっと取り上げてみてみると・・・
そこにはウェディングドレス姿のアン・ヨンヒssiが写っていた。
「・・・ご・・・ご結婚されたんですね・・・」
衝撃が私の全身を貫いた。
がくがくと震える足をカウンターで支えながら、私は写真を見つめた。
写真の中のヨンヒssiの輝くような幸せそうな笑顔・・・・
そこには、紛れもない純白の愛が写っていた。
心の悲鳴を押し隠して、私はジノssiを見た。
私は自分に言い聞かせた。
美尋・・・今は飛び切り苦いブラック珈琲でも、きっといつか美味しいと思える日が来ることを信じて・・・
私は精一杯の笑顔を浮かべて「ご・・結婚・・お・・おめでとうございます・・・・どうぞお幸せに・・・」と声を絞り出した。
ジノssiも笑顔で「ありがとう。二人に伝えておくよ。」と答えた。
「・・・伝えておく?二人に?」
思わず問い返した私の疑問符に、ジノssiはもう一枚の写真を差し出した。
「これも見て欲しい」
受け取って見てみると、韓国の婚礼衣装を身にまとったアン・ヨンヒssiと、その隣にはソン・ジェインssiが・・・・
「あ、あの・・これは・・・」
新たな衝撃が再び私を襲った。
「結婚したのは、この二人なんだ。」
ええっ?!アン・ヨンヒssiとソン・ジェインssiが?!
「海外で極秘に挙式した。今まで公にしてこなかったのは、事務所やスポンサーの問題やCM契約の関係など、いろいろあったからなんだ。」
「・・・・そう・・だったんですか・・・」
体中の力が抜けた私は、カウンターの淵で体を支えながら、二人の写真を見て、呟いた。
極秘結婚・・・人気スター同士の結婚なら、それもしかたないことなのかもしれない。
「でも、ようやくすべてがクリアーになった。二人は明日帰国して会見するよ。」
ジノssiの話を聞きながらも、私は写真の二人からまだ目が離せないでいた。
その写真には、このお二人が乗り越えてきたいろんなもの・・複雑に巻きつき、雑多に混じりあい絡み合っていたものが、やがて、真っ白に溶け合っていくような、そんな二人の愛の軌跡が写っているように見えた。
「僕が二人に依頼されて、結婚式の写真を撮ったんだ。」
そうだったんだ・・・
また膝の力が抜けてきて、私はカウンターで体を支えた。
「こっちで騒ぎになっていることは知っていたけど、まさかここまでとは思ってなかったから、正直二週間前に帰国したときは、びっくりしたよ。」
「二週間前に帰国されてたんですか?」
「別に極秘に帰ってきたわけじゃないよ。マスコミのお目当てはあくまで『女優のヨンヒssi』だからね。」
「そうだったんですか・・・」
「この結婚に関しては、もっと時間をかけてまわりを説得してからすべきだという意見もあるだろう。でも、二人には・・・ヨンヒssiには、時間がなかったんだ。」
「時間がなかった?」
ジノssiの思いがけない言葉に、私は写真を手にしたまま、少し厳しい表情のジノssiを見つめた。
「実は、彼女のお母さんが病に倒れたんだ。」
「・・・ご病気だったんですか・・・」
「ヨンヒssiは、母子家庭で育って、まさに母一人、子一人で、お互いに支えあってきた親子なんだ。だから、彼女はどうしても、自分のウェディングドレス姿をお母さんに見せてあげたかったんだ。」
「・・・・・そうだったですね・・・」
ジノssiはしばらく何かに想いを馳せた後、ゆっくりと口を開いた。
「以前、僕の弟の話をしたことがあったね。」
「・・・ええ・・・・」
「あの二人が突然、急いで・・・半ば強引とも言える形で結婚したのは、僕の弟にも関係のある話なんだ。」
「弟さんと?」
「僕の弟の命を奪ったのは、白血病という病気だった。」
・ ・・・白血病・・・・・
ふいに、私の脳裏に祖母の病院で出会った子供たちの姿が浮かんできた。
あの子達の中にも、同じ病と闘っている子がいるのかもしれない。
「ヨンヒssiのお母さんも弟と同じ病に倒れたんだ。」
「そんな・・・・」
「僕はヨンヒssiともジェインとも何度も仕事をしたことがあったし、二人が付き合っていたことは、以前から知っていた。時には、恋愛の相談を受けたこともあったよ。そんな関係だったから、ヨンヒssiからお母さんのことを相談されたんだ。」
「そうだったんですか・・」
ジノssiは、そこでちょっと息をつぐと、口調を変えてこう言った。
「フォトセラピーっていう言葉を知っている?」
「フォトセラピー?」
「うん、写真を撮ることを通して、心を癒したりする心理療法なんだけど・・」
「フォトセラピー・・・」
聞きなれない言葉に、私はただジノssiの言ったとおりを繰り返すだけだった。
「弟を亡くしてから、自分なりに僕にもなにかできることはないかと、ずっと思ってきた。そんな時、フォトセラピーという療法があることを知った。それなら、僕にもできるかもしれない。そう考えて、そのセラピーを学んだんだ。そして、まず、弟が入院していた病院で実践し、広げていこうとはじめたんだ。」
弟さんの・・・・・
「写真を撮るという行為は、一種客観性を伴う作業なんだ。病と闘っている自分をもう一人の自分が写し出す。そんな「目」を持つことで、癒されることもあるんだ。」
「そうなんですか・・・」
「病室での自分や仲間を写して面白いキャプションをつけたり、病院の中の木や花、病室から見た空や月や星・・そんなものを探して写していると、単調で辛いだけだと思っていた入院生活にも、はりがでてくる。中には、手術直後の自分の姿を写した人もいたよ。わざとオーバーなポーズをとって、そんな自分を笑うことができるようになったと話してくれた。そして、病と闘う勇気が湧いてきたとも・・・・嘆いてばかりの毎日より、よし、頑張ろうという気持ちになったと・・・」
「ええ・・・」
「そんな風に共感してくれる人がたくさん集まって、自然とサークルができていった。何度か作品展を開いたりもした。そうしたら、またそれが生きがいになって、元気が湧いてくる。僕はそんな活動を弟の病院で続けていたんだ。」
「そうだったんですか・・・・・」
「そんな僕の活動をヨンヒssiも知っていた。それで、お母さんのことを相談されて、僕はその病院を紹介した。弟は残念ながら、完治できなかったけれど、その方面では大変実績のある病院なんだ。ヨンヒssiのお母さんも入院して、闘病生活を送りながら、やがて僕のサークルにも参加してくれるようになったんだ。」
ジノssiはそこで息を継ぐと、少し口調を変えてまた話し始めた。
「あの日・・・僕たちがいわゆる・・・密会写真を撮られたとき、ヨンヒssiはお母さんの余命を宣告されたんだ。もう・・あまり長くはないと・・・」
「そんな・・・」
「それで、たまたまその日、フォトセラピーの活動で病院にいた僕は、ショックを受けたヨンヒssiに付き添って帰るところだったんだ。」
ジノssiの話を聞いて、ふと私の頭に閃くものがあった。
「あの・・・もしかしてその病院というのは、ソウル第一病院ですか?」
「ああ、そうだよ。」
ソウル第一病院!!
「実は・・・うちの祖母もその病院に入院していたんです。」
「そうだったんだ・・・」
それで、病院の近くのあのバーのあたりで写真を撮られたのね・・・
「でも、この事実はヨンヒssiのお母さんには告げていない。だからあの件について釈明ができなかった。でも、僕は別にかまわないと思っていた。マスコミの熱は一時だし、そんなことより大切なことがあったから・・・」
「・・ええ・・・」
「それで、ヨンヒssiは、どうしてもお母さんに自分の花嫁姿を見せたいと思ったんだ。それは、母子家庭で育ったヨンヒssiの夢でもあり、お母さんにとってもたった一つの願いでもあった。それから、ヨンヒssiとジェインの二人は事務所に掛けあったり、いろいろと交渉をしたんだけれど、到底すぐにOKがでるものじゃなかった。結局二人は極秘結婚という道を選んだわけだけど・・・」
「そうだったんですね・・・」
「国内では情報も漏れやすい。だから海外で、なんとかお母さんに参列してもらえるようにと、準備していたんだが・・・」
そこでジノssiの顔が曇った。
「でも、思ったより病の進行が早くて、今の状態で海外に行くことは無理になった。ヨンヒssiは式を中止にしようかと思ったらしいが、お母さんのたっての希望で挙式することになったんだ。カトリックの信者でもあるお母さんは、神様の前で二人に結婚を誓ってもらいたかったようだ。それで、僕がヨンヒssiのお母さんに頼まれたんだ。『私の代わりに式に参列して二人の写真を撮ってきてください』ってね・・・・」
私はジノssiが手渡してくれた数枚の写真を見た。
抜けるような青空をバックに見つめあう二人・・・
誓いのキスを交わすヨンヒssiの瞳から、零れ落ちた真珠のような涙
指輪をはめるソン・ジェインssiの真摯な眼差し
カテドラルのステンドグラスから溢れる光の中、真っ白なウェディングドレス姿のヨンヒssiの幸せなそうな笑顔と、彼女を見つめるジェインssiの愛に満ち溢れた微笑
見交わす二人の瞳の中に真実の愛が輝いていた。
写真を見るうちに、私まで本当に式に参列したかのような気持ちになってきた。
こんな写真を撮ることができるのは、ジノssiだけだ。
だからこそ、ヨンヒssiのお母さんもジノssiに頼んだのだろう・・・
「これが、あの騒動の真実なんだ。理解してもらえただろうか」
「理解だなんて・・・私は・・・その・・・」
あの騒動の渦中、ここを逃げ出した私は、言葉に困った。
「結局、美尋ssiには、何も説明できないまま、あの騒動になってしまって・・・でも・・・なんていうか・・言わなくてもわかってくれるというか・・・どこかに、そんな気持ちがあったから、帰国して、この店が閉まっていたときには、本当に驚いたよ。」
何も言わなくても・・・
その時、ジノssiの言葉と、以前祖父が言ったことが重なって私の心をざわめかした。
『そうさなぁ・・・・男ってのは、駄目なもんでな。大切な人になればなるほど、何も言えずにいてしまう。心のどこかに、言わなくてもわかってくれると思ってしまうんだな。
勝手なもんだが、しょうがないな。』
そんな私の戸惑った表情を見て、しばらく黙っていたジノssiが口を開いた。
「美尋ssi、僕が最初にこの店に来たときのことを覚えている?」
「・・・ええ・・・」
ジノssiの思いがけない問いかけに、私はただ頷くしかなかった。
あの日・・・・時間外にたくさんの荷物を抱えて、ジノssiは、私の人生に飛び込んできた・・・
「あの日、僕はどうして、この店に来たと思う?」
「・・それは・・・仕事の途中、たまたまここを通りかかったからですか?」
「それは、違う。僕はこの店に美尋ssiがいることを知っていた。いつかここへ来たいと思っていたんだ。」
「それは・・・・どういう意味ですか?」
ジノssiはそこでちょっと軽いため息をついて、カウンターの椅子の背にもたれかかった。
やがて、ゆっくりと背中を起こすと、まっすぐに私を見つめた。
「僕が初めて美尋ssiを見たのは、朝、仕事へ向かう車の中だった。丁度そこの信号待ちで止まった時、車の中から偶然見かけたんだ。」
思ってもみなかったジノssiの言葉に、私はただ聞き入るしかなかった。
「工事で道路が渋滞していた上、その日、僕は仕事の内容にもクライアントの要望にも、納得がいっていなかった。随分かっかしていたんじゃないかな。美尋ssiも以前ケータリングに来てくれて、そんな僕を知っているよね。あんな感じだった。そんないらいらと落ち着かない僕に比べて、美尋ssiは笑顔でポーチの掃除をしていた。
なんだかショックだったよ。同じように一日の仕事を始めるというのに、僕たちはどうしてこんなに違うんだろうと思った。」
「ジノssi・・・・・」
「楽しそうに、掃除を終え、愛しげに店内を歩き回わる美尋ssiを見て、僕は考え込んでしまった。せっかく好きな仕事をしているのに、僕は何をしているんだろう・・とも思ったよ。世の中には自分の好きなこと、したいことに巡り合わないまま、一生を終える人もいる。僕は、本当に好きで心からやりたいと思えるものに出会ったのに、そして、それを仕事にすることができたというのに、どうしてこんな風になってしまったのか・・・・ってね。仕事を始めたときは、ただ写真を撮れることが、嬉しくてたまらなかったのに、いつのまにかそんな気持ちを忘れていたんじゃないかって思ったんだ。」
ジノssiは、小さなため息を洩らした後、また話を続けた。
「そして、その夜遅くに、またこの店の前を通りかかったんだ・・・というより・・・遠回りして通ったんだけど・・・」
「あの・・その・・・」
ジノssiの真摯な瞳に、つい目を逸らした私は意味のない言葉を発しただけだった。
「その時も、美尋ssiはとても満ち足りた表情で珈琲を飲んでいた。窓ガラス越しに見た美尋ssiは、心に染み入るような笑顔をしていた。」
「あの・・それは・・・」
忙しい一日を終えた後、掃除の終わった店内を見回しながら、自分のために淹れた珈琲を飲むのは、ささやかな私の習慣だった。
「それから、気がつくと、よくこの店の前を通りかかっていた。そのたびに見かける美尋ssiは、いつも笑顔で満ち足りていた。どうして、いつもそんな風にいられるんだろうと不思議な気持ちになったりもした。いくら好きな仕事でも、疲れている時もあるだろうし、一日のうちには、厄介なお客さんが来る事もあるだろう。なのに、何故彼女はいつもこんな笑顔でいられるんだろうってね・・・」
「私は・・・・ただ・・・このお店が好きだったから・・・」
「うん。そうだね。でも、僕には美尋ssiの笑顔が眩しかったんだ。僕もこの仕事が好きだ。でも、いつの間にか仕事に追われて、なにか大切な事を置き去りにしてるんじゃないかと自分を振り返ったりもした。そして、真夜中の事務所でパソコンに向かっている時・・・なかなか進まない打ち合わせの途中やクライアントの無茶な要望に腹が立った時、ロケ現場で準備をしている時、朝早くに仕事先に向かう車中で・・・ふと美尋ssiのことを思い浮かべるんだ。今、この瞬間にも彼女は笑顔で珈琲を淹れているんだろうかってね・・・」
「ジノssi・・・・」
「それで、ずっとこの店に来たいと思っていた。どんな店でどんな珈琲が出るんだろうって思っていたけど、僕の仕事のスケジュールでは、なかなか営業中にこの店に来ることができなくって・・・あの日・・最初にこの店に来た時も、またいろいろと厄介な状況が持ち上がった時で、ロケバスの中で煮詰まった僕は、ここを通りかかった時、美尋ssiが店にいるのを見かけた。だから無理を言って一人で降ろしてもらったんだ。次の打ち合わせまでに頭を冷やしてくると言ってね・・・」
それで、あんなに大荷物だったのね・・・
「ようやく念願叶ってこの店に来ることができたけれど、美尋ssiもこの店も珈琲も、僕が想っていた通りだった。いや、それ以上かな・・・不思議と気持ちが落ち着き、なんだか本来の自分に戻れたみたいに感じた。とても癒されたよ。」
「あ・・・ありがとうございます・・・」
「それから、時間外ばかりで申し訳なかったけど、毎日ここに珈琲を飲みに来て、美尋ssiといろんな事を話して・・・そんな日々の中で、気づいたことがあったんだ。」
「気づいた事?」
「そう・・・僕は今、好きな仕事をしているけれど、それだけでは心のおさまらない時もある。時には、気に染まない仕事を依頼される事もあるし、納得のいかない事にも出会う。
その時、これは僕のスタイルではない、自分らしくないと、言下に仕事を降りるよりもう少し違う道もあるんじゃないかって・・・考えるようになった。
もちろん、絶対に譲れないラインはあるよ。
でも、やりたい事をやるだけが仕事じゃない。時には、そんな状況でも、やるべき事はあるんじゃないかって思ったんだ。
自分らしく仕事をするということは、ただ単に、自分のやりたい事をやるという事ではなくて、時には、制約のある中でも、気の進まない状況でも、与えられた場所で、いかに自分らしくやりぬくかっていう事じゃないかってね。」
「ジノssi・・・・」
ジノssiの言葉に、静かな感動が私の胸に迫ってきた。
「僕は大切なことを美尋ssiから教わったんだ。」
「そんな・・・買い被りすぎです。私は何もしていません。」
「でも、僕にとって美尋ssiはよく磨かれたカメラのレンズのようだったんだ。つい見落としてしまいそうな小さなものを、ズームして気づかせてくれたり、広角レンズで周りを見回せてくれたり・・・そんな存在だったんだ。」
「そんな・・・私は・・・」
ジノssiの言葉に、私は激しく首を振った。
「前に言ったよね」
「えっ?」
「ここに来るお客様が美尋ssiのお祖父さんの淹れてくれた珈琲を飲みながら、いろんな事を話して帰って行くと・・・祖父さんはただ珈琲を淹れてみんなの話を聞くだけなんだけど、お客さんはすっきりした顔で帰っていくって・・・」
「ええ・・でも、それは・・・」
「僕も同じなんだ。ここへ来て、カウンターのこの席に座って、美尋ssiの淹れてくれた珈琲を飲みながら、とりとめのない話をする。今日あったこと、おかしかった出来事、つい腹を立ててしまった事や、失敗した事、それから綺麗だった景色や出逢った素敵な物や人・・・毎日、そんな話をする中で、気づかされたり、励まされたり、元気をもらったり、癒されたりしていたんだ。」
「ジノssi・・・」
「でも、きっと・・・」
「・・・でも?」
「でも、きっと、僕はこの店に来る前から、美尋ssiに恋をしていたんだと思う。」
恋をしていた?!
ジノssiが私に??
今、そう言ったの?それとも、私の聞き間違い?!
「初めて車の中から、美尋ssiを見た時から・・・・僕は美尋ssiに恋をしていたんだ。」
よほど私は驚いた顔をしたのだろう。
ジノssiは一瞬言葉に詰まると、その後、がくっと肩を落とし、深いため息をついた。
「やっぱり、伝わってなかったか・・・」
まだ驚いた顔で、固まったままの私に、苦笑めいたため息を洩らすと、ジノssiは、ちょっと悪戯っぽい目になった。
「だから、今日は忘れ物を取りに来たんだ。」
「わ・・忘れ物?」
「そう・・・僕が初めてこの店に来た日みたいに・・・時間外に・・・・飛び込んできた。」
「あ・・あの・・・・」
そういえば、ジノssiが初めてこの店に来た時、スケジュール帖を忘れていって、その日の夜に取りにきたことがあったのを、思い出した。
私はジノssiが何か忘れていなかったか、カウンターを見回してみた。
「僕のheartはどこかに、落ちていなかった?それとも、もう粉々に壊れているかな?」
ジノssiの切なげな瞳に見つめられた時、私の胸にぽたり・・と恋の雫が滴ってきた。
「わ・・・私も・・・」
考えるより先に、言葉が口をついて、出てきていた。
「私も・・・ジノssiが・・・す・・好きです・・・」
死ぬほどの勇気を振り絞って、震えるように告白したが、最後は消え入りそうな声になった。
「本当に?」
「は・・はい・・・」
まともに、ジノssiの目が見れずに、私は俯いて、カウンターをじっと見つめたまま返事をした。
「ジノssiがこのお店に初めて来てくれた時から、ずっと・・・気になっていて・・・毎日来てくれて・・嬉しかったです・・・えっと・・・でもあの騒動で、やっと自分の気持ちに気づいたというか・・・それで・・・・・私は、ジノssiに恋していたんです・・」
しどろもどろでも、それは、私の精一杯の、一世一代の恋の告白だった。
「美尋ssi・・・・」
深いジノssiの声が聞こえた後、しばらく沈黙が続いた。
ジノssiの強い視線を感じながらも、顔をあげられずにいた私は、いたたまれずに、カウンターで淡い湯気を上げている珈琲を手に取った。
「コ・・・珈琲が入っているんですけど・・・の、飲まれますか?」
くすっとジノssiが笑ったような気がした。
「うん、久しぶりに美尋ssiの珈琲をいただこうかな」
「はい・・・」
自分が何をして、何を言ったのか、まだよくわかっていないままに、珈琲だけは、いつものように、淹れることができた。
とはいえ・・・カップに注いだ時、かなり冷めていることに、やっと気づいた。
「あ・・・ちょっと・・冷めているかもしれません・・・」
「いいよ。」
ジノssiはそっと手を伸ばした。
私はやっと顔を上げたが、目があった途端、魅入られたようにジノssiの瞳から目が逸らせなくなった。
見詰め合ったまま、私はジノssiにカップを差し出した。
伸ばされたジノssiの手は、カップでななく、私の手をつかんだ。
そのまま、ぎゅっと前に引っ張られた。
「あ・・あの・・・」
私は、引っ張られるまま、カウンターに身を乗り出すような姿勢になった。
ジノssiも、私の手をつかんだまま、カウンターに身を乗り出した。
そして、私たちの唇がそっと重なった。
その瞬間すべての時間が止まった。
優しく立ち上る珈琲の香りの中で・・・・
やがて、初めて口づけを交わす私たちの後ろで、静かにゆっくりと夜が明けていった。
ジノssiは、そっと唇を離すと、目を閉じたまま震えている私の唇を人差し指でゆっくりとなぞると、再び唇を重ねた。
初めてのキスは、甘くて少しほろ苦くて、ほんのりと珈琲の味がした。
時が止まったような熱いキスの後、私の手を片手で包み込んだまま、ジノssiは、ゆっくりと珈琲を口にした。
私も、何を言っていいのかもわからず、目の前にあったカップに手を伸ばした。
そして、震える手で珈琲を口に運んだ。
「知ってた?」
「えっ?」
燃えるような頬で、私は珈琲を飲むジノssiを見た。
「これは、僕たちが初めて一緒に飲む、夜明けの珈琲だね。」
よ、夜明けの珈琲・・・・
その響きに私の胸の雫が音を立てて、滴りだした。
悪戯っぽい目をして笑うジノssiの姿に、私の胸の中に滴り落ち集まった琥珀の雫が、嵩を増し、溢れ出して、私は甘い恋の波に溺れていった。
ジノssiはコトンと優しい音を立てて珈琲をカウンターに戻すと、包み込んでいた私の手をそっと引き寄せ、再び唇を重ねた。
いつまでも続く甘いキスを交わす私たちを映し出した窓の外では、朝焼けが鮮やかな光を放ち始めていた。
カララン、コロロン・・・
珈琲専門店ヒロと書かれたドアを開けると、ドアチャイムが楽しげな音を立てて、私を迎えてくれた。
さぁ、今日も忙しい一日の始まりよ。
私は元気よく掃除を始めた。
あれから、私は正式に図書館を退職して、この店のオーナーになった。
館長をはじめ仕事仲間たちは、私を笑顔で送り出してくれた。
そして、彼らは今ではこの店の新しい常連さんだ。
それから、昔からの常連さんたちは、喜んで店を訪れてくれ、アルバイトのヒジンもすぐに駆けつけてくれた。
こうして、珈琲専門店ヒロは再開した。
まずポーチからと再びドアを開けると、珈琲専門店ヒロとかかれた横に、「photo gallery hand to heart」と書かれた文字が目に入ってきた。
私はその文字を優しく指でなぞりながら、店内を見渡した。
お店の壁には、数々の写真が飾られている。
今は、数枚の写真を週代わりで飾っているが、もうすぐ、本格的な作品展をここで開催する予定だ。
ジノssiの主催するフォトセラピーのサークル仲間の張り切った笑顔が浮かんでくる。
作品展には祖父と祖母も見に来てくれるはずだ。
そうそう、弟も、友達をたくさん連れて見に来るといっていたっけ・・・
それから、お店の片隅に置かれた本棚が目に入った。
ここには、お客様が寄贈してくれたいろんな本が納められている。
お客様の間で自由に借りていってもらい、また移動図書館のように、病院の子供たちにも利用してもらっている。
あれから、私なりに考えて、小さな図書館のような事をしたいと思った。
今、病院で読み聞かせのサークルを始めて、今度ストーリーテリングに挑戦する予定だ。
このお店は、そんな活動の拠点にもなった。
hand to heart 手から心へ・・・・シャッターを切る手、本を手渡す手・・・そこから心へ届けたいというジノssiと私の願いからつけられた名前だった。
やがて、馥郁とした珈琲の香りが漂い始めて、ヒロの一日が始まった。
カララン・・・コロロン・・・
ドアチャイムがお客様の到来を告げる。
楽しげに友達同士で訪れてくれる方、お一人で静かに本を読みながら、珈琲を口にする方・・・何か考え込んでいるような寂しげな横顔のお客様・・・カウンターで話に花が咲く常連さんたち・・・壁に飾られたヨンヒssiとジェインssiの結婚写真を指差しながら、語り合うカップル・・・物議を醸したお二人の結婚は、真実を告げた二人の真摯な態度によって、優しく世間に受け入れられた。
あれから、ヨンヒssiのお母さんの容態は持ち直し、来月骨髄移植を受ける予定だ。
ひときわ賑やかな高校生たちの笑い声が店内に響き渡り、柱時計が楽しげに時を告げた。
今日もまたいろいろなお客様がこの店を訪れてくれた。
ふとカウンターの隅っこに座るヒジンの大学の友達の会話が耳に入ってきた。
「でね、あいつにコクられちゃったのーー、どうしようーー」
「ええーーー!いいなぁ・・・私なんか失恋したっていうのに・・」
ふふっ・・・
恋の雫も涙の雫も・・・・人には必要なのかもしれないわね。
どちらも同じように、人を潤し、瑞々しくさせてゆく・・・
私はふと時計を見上げた。
今日もまたジノssiは来てくれるかしら・・・
そうね・・・きっと時間外にそのドアを開けて、優しい微笑を浮かべながら、カウンターのいつもの席に座って・・・
「美尋ssi、日替わり珈琲、ワンです。」
ヒジンのオーダーにはっと我に返った。
こら、美尋、しっかりしなさい。
私は苦笑いを洩らすと、自分を叱りながら仕事に戻った。
やがて、閉店の時間が来て、ヒロの忙しい一日は終わりを告げた。
さてと・・・・
私は、掃除を終えた店内を見渡すと、ゆっくりと珈琲を淹れ始めた。
もうすぐ来る大切な人のために・・・・
カララン・・・コロロン・・・
ドアチャイムが軽やかな音を立てて、時間外のお客様の到来を告げた。
「いらっしゃいませ、ヒロにようこそ」
私の視線の先には、柔らかな笑顔を浮かべたジノssiがいた。
私はカウンターのいつもの席に向かうジノssiに、少し首をかしげて聞いた。
「オーダーはお決まりでしょうか?」
ジノssiは、カウンターの前に立つ私を捕まえると、ぎゅっと抱きしめて、耳元で囁いた。
「オーダーは、美尋」
そして、そのまま熱い唇を重ねてきた。
「お客様、珈琲が出来上がっておりますが・・・早く飲まないと冷めてしまいます・・・」
長いキスが終わって唇が自由になると、私はそう言った。
私の言葉に、ジノssiは少し笑って私の頬をつつきながら、「キスした後に、珈琲・・これは困った習慣かな?」と囁いた。
ぽたり・・・
その笑顔に、また一滴、滴り落ちた琥珀の雫は、やがて、尽きることのない愛の泉を私の胸に作り出していった。
そして・・・
こんな毎日を私は今日も送っている。
お店を開けて、たくさんのお客様をお迎えして、例の作品展の準備を手伝い、病院で読み聞かせの会を開き・・・・慌しくも充実した毎日だ。
そう・・確かな明日なんて、本当はどこにも存在しないのもしれない。
私たちはあやふやであいまいな今を生きている。
確かなことはただひとつ。
ジノssiを好きだというこの気持ちだけだ。
人生なんて、この先、何が起こるかわからない。
予定外のことだらけだ。
あの日、時間外にジノssiがこのお店に飛び込んできたように・・・
この先も、きっといろいろあるだろう。
この前のような誤解や行き違いもあるかもしれない。
でも、そのたびに私たちは、深く結ばれてゆく。
時には喧嘩したり、怒ったり、仲直りしたり・・
すねたり、笑ったり、泣いたり、甘えたり・・・・
そんな風にジノssiと時を刻んでいけたらいいな・・・
ぽたり・・・
この胸に滴る恋の雫の音を聞きながら・・・・
カララン・・・コロロン・・・
楽しげなドアチャイムの音が軽やかに店内に響き渡る。
さぁ、今日も笑顔でお客様をお迎えしよう。
「いらっしゃいませ、珈琲専門店ヒロへ、ようこそ・・・」
(2007/11/15 Milky WayUP)