「いらっしゃいませ」
カララン・・・コロロン・・・
「ありがとうございました」
ドアチャイムが揺れるたびに幾度となく口にするこの言葉
毎日毎日、何十人ものお客様をお迎えして、そして、お見送りして・・・
時に慌しく、時にのんびりと、こうして私の日々のページは捲れて行く。
立ちのぼる珈琲の香りとともに・・・・
数え切れないほど口にしてきた「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました。」
そんな中でも、それぞれ特別がある・・・
そう・・・
私が一番胸のときめく「いらっしゃいませ」
それは・・・
カララン・・・コロロン・・・
「ありがとうございました」
最後のお客様をお見送りして、ほっと一息をつく。
今日も忙しい一日だったわ・・・
ちょっと背伸びをして、壁の時計に目をやる。
もうこんな時間・・・・
急いでテーブルの上を片付けて、シンクにたまった洗い物を食洗機にセットして、スタートボタンを押すと、私はフロアモップを片手にさっと床の掃除を始めた。
もうすぐかしら・・・
そんな風にちらちらと窓の外を窺いながら、てきぱきと後片付けをしてゆく。
疲れているはずなのに、朝の掃除より、体が・・・心が軽い。
まったく・・・
げんきんな自分に苦笑をもらしつつ・・・
これでよし。
モップを片付けると、カウンターの中へ戻って、珈琲のキャニスターに手を伸ばす。
「Mヒロスペシャル」と祖父の枯れた筆跡で記された缶の蓋を開けると、あたりに芳香が漂った。
きっちりと量って、どっしりとした手挽のミルで挽き始めると・・・
カララン・・・コロロン・・・
ドアチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
微笑みと一陣の風をつれて、ジノssiがやってきた。
こうして、私は、ヒロ最後のお客様をお迎えする。
「今日は忙しかった?」
ジノssiが大きなバッグをカウンターの下に置きながら、笑顔で聞く。
「まぁまぁです。ジノssiは?相変わらず忙しい一日でした?」
そう聞き返しながら、珈琲にゆっくりとお湯を注いでゆく。
今日あった撮影のこと、綺麗だと思った物、人、つい声を荒げてしまった出来事、可笑しかったことや、ひやっとしたこと、などなど・・・
ジノssiが珈琲を片手にあれこれ話してくれるのを、私はカウンターの中で微笑みながら聞いている。
そして、私も今日あった出来事やお客様のちょっとしたエピソード、そして、日常の細々とした事・・・エントランスの花々から気になる本や映画の話まで・・・いつの間にか話していた。
こんなふうに毎晩たわいもない話をする私たちの周りを、立ち上る芳しい珈琲の香りがふわりと優しく包んでくれていた。
そんなある夜・・・
カララン・・・コロロン・・・
ドアチャイムの音
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「ああ・・・今日は疲れたー」
いつになく疲労感を漂わせてジノssiがどすんと椅子に座り込んだ。
「大変な撮影だったんですか?」
淹れたての珈琲をジノssiの前に置きながら、彼の疲れた表情を窺った。
なにかトラブルでもあったのかしら・・・
ジノssiは、一口ごくりと珈琲を口にすると、上目使いに私を見た。
「あ・・あの・・・」
その強烈な視線に心がざわめく。
「今日の撮影はちょっと特別だったから・・・」
「なんの撮影だったんですか?」
私は胸のときめきを押し隠すように、珈琲を口に運んだ。
「ヌードの撮影だったんだ。」
!!!!
ごほっと珈琲が喉にひっかかり、思わずむせこんだ。
「あ・・・え・・っと・・そ、そうだったんですか・・・それは・・・お、お疲れ・・でしょうね・・・」
しどろもどろに返事をする間にも、私の脳裏をいろんな場面が嵐のように浮かんでは膨れ上がり、弾け飛んだ。
カ・・カメラマンですもの・・・ヌ・・ヌードの撮影だってあって当然よ・・・・
ジノssiはプロなんだから、そういった撮影だって、ちゃんと・・・しっかり・・・えっと・・・
狼狽が顔にでているようで、私はあわてて珈琲のお代わりをジノssiのカップに継ぎ足した。
「見てみる?」
「は??」
ジノssiの問いかけに素っ頓狂な声で返事をした私を、ちょっと悪戯っぽい目で見ると、ジノssiは大きなバックを探り出した。
「あ・・いえ・・あの・・・えっと・・その・・」
ぱらり・・・と何枚かの写真が裏向きにカウンターの上に置かれた。
・・・・・・・・
「これは今日撮った写真なんだけど・・・・彼女・・肌が真っ白でとっても綺麗な体のラインだった。」
裏返しの写真を前に固まったままの私を見ると、ジノssiがくすっと笑った。
「ただし・・・彫像だけど・・」
「彫像?!」
慌てて写真を表に返すと、ギリシア彫刻の美女が神々しく写し取られていた。
「ジノssi・・」
もう!と、少し怖い顔で睨むと、ジノssiが軽やかな笑い声をあげた。
「ごめん・・・つい・・・美尋ssiをからかう誘惑に勝てなくて・・・」
ひとしきり笑ったあとは、その彫像が作られた時代のことや、花開いた文化や著名な彫刻家について、話してくれた。
いつもながら、ジノssiの博識には驚くばかりだ。
「これは、今度ソウル国立美術館で開かれる古代ギリシア彫刻展のパンフレットなんだけど、カメラを通してもその圧倒的なオーラに驚くばかりだよ。何千年の時を経ても色あせない美しさ、神々しさ・・芸術の持つ力というものを思い知らされた今日の撮影だったんだ。」
ごくり・・と珈琲を飲みほして、そう語るジノssiの少年のような瞳の輝きに、私の心が切ないまでに高まってゆく。
そっと写真を手に取ると、ジノssiによって切り取られた永遠の美を私も一緒に共有できたようで、波打つような喜びが心の海を満たしていった。
やがて・・・
「もう、こんな時間だね・・・」
ジノssiの言葉に、私の胸をせつない亀裂が走る。
なぜなら、彼のその言葉が、さよならの合図だから・・・
ゆっくりと立ち上がりレジのほうへ向かう彼の大きな背中を、節目がちに見つめながら、後を歩く。
ドアまでジノssiを見送り、立ち止まった彼と私の目が一瞬重なって・・・
「ありがとうございました」
これが、私の一番切ない「ありがとうございました」
こんな風に、ジノssiと私の毎日は、彼の撮る写真のように・・・そう、まるで、ジノssiの好きなフィルムがカメラの中で、一コマ、また一コマと巻き取られてゆくように、ゆっくりとでも確実に枚数を重ねていった。
そう、思っていた・・・
少なくとも、私は・・・・
ある日のこと・・・・
カララン・・・・コロロン・・・
一日のうちで一番忙しいランチタイムに、お客様の出入りを告げるチャイムがひっきりなしに鳴っていた。
「いらっしいませ」
「ありがとうございました」
アルバイトのヒジンと二人、目の回るような忙しさに追われながら、立ち働いていると・・・
「美尋ssi・・・・」
今さっき席についたお客様に水をお出ししたヒジンが怪訝そうに話しかけてきた。
「どうかした?」
手元の珈琲から目を離さず返事をすると、ヒジンがそっと耳元で囁いた。
「今、来られたお客様・・・なんかちょっと変なんですけど・・・」
「変?」
その言葉に顔をあげて、お客様のほうを見てみると・・・
30代の半ばだろうか・・・派手なポロシャツにチノパンツといういでたちで、普通のサラリーマンというよりどこかの業界人という感じの男性が窓際の席に着き、店内をきょろきょろと見回していた。
「変って・・・どういう風に変なの?」
「メニューや本日の珈琲の説明をしても、全然聞いてないって感じで・・・なんかねめつけるように、あちこち見てるし・・・」
「そう?」
確かに、珈琲専門店に来たわりには、メニューを手に取ることもせずに、相変わらず店内を眺め回している。
その目つきは、ヒジンのいうとおり、あまり気持ちのいいものではなかった。
が、お客様はお客様だ。
「こういうお店が珍しいのかもしれないわ。気にしないで、オーダーをお願いね」
ヒジンにはそう言ったが、やりかけの作業に戻りながらも、なんだか胸の内がざわめいていくのが自分でもわかった。
誰だろう・・・・
なにか事情でもあるのかしら・・・
ちらちらとお客様のほうを窺っていると、なにやヒジンに尋ねている。
首を振りながら、ちょっと困ったように返事をするヒジンを見ながら、胸のざわめきが一段と大きくなっていった。
オーダーを聞き終えたヒジンが戻ってきて、こっそりと耳打ちをする。
「あの人、やっぱり変ですよ。写真を見せて、『この人、店に来てないか?』って聞くんです。」
「写真?」
「そうなんです。で、その写真の人って、カメラマンのチャン・ジノssiなんですよ!ほら、あの有名な」
「・・え、ええ・・・」
「そりゃあ、1回、撮影現場に珈琲をデリバリーした事はありますけど、そんな有名人、うちの店には来られません・・って、言っときました。」
「・・・そう・・・」
何故かヒジンの目をまっすぐに見ることが出来ずに、うつむき加減で返事をする。
私は、ジノssiが毎晩閉店後にお店に来ていることをヒジンに話してはいなかった。
ヒジンはちらっとお客様を見ると、「あの人、いやな感じですよね。それに、もし来ていたとしても、何も言いません。」と、きっぱりと言い切った。
その声音に、どきっと心臓が音を立てた。
何も言っていないけれど・・・
ヒジンも何も聞かないけれど・・・
敏感な女の子だもの
私の変化に何か気づいているのかもしれない。
ともすれば、恋の波に溺れそうな私の瞳は、明らかに以前とは違っていたのかもしれないのだから・・・
その時、ついちらっとお客様を窺う私の手元が滑って・・・
「あっ」
カシャーーン・・・
洗いかけのグラスをシンクに落としてしまった。
「美尋ssi、大丈夫ですか?怪我しませんでした?」
「平気よ。ありがとう・・・」
厚手のガラス製のグラスは割れこそしなかったが、蜘蛛の巣のようなひびがみるみる広がってゆく。
まるで・・・何かを暗示するかのように・・・
とはいえ、その後も忙しい時間が続き、いつものようにジノssiが訪れる頃には、私の胸の中は、微かな不安よりも喜びの方に、傾いていた。
やがて・・・
カララン・・・・コロロン・・・・
ドアチャイムを揺らして、ジノssiがやってきた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
いつものような挨拶
その後、ジノssiは一瞬ちらっと後ろを窺うような仕草をした。
ピシッ・・・
私の胸のガラスに小さなクラック・・・
「今日は忙しかった?」
でも、いつもと変わらない彼の笑顔に小さな亀裂は隠れてしまっていた。
「ええ、まぁまぁです、ジノssiは、忙しい一日でしたか?」
珈琲を注ぎながら、私がいつものように聞くと、返事はなく沈黙が広がった。
「・・・ジノssi?」
不思議に思って問いかけた私の声で、ジノssiはわれに返ったように、「ああ・・結構、忙しかったよ。」と答えると、カウンターの席に腰を下ろした。
「実は・・・・明日からちょっとロケに行くことになりそうなんだ。」
「ロケ・・・ですか?」
「うん、海外なんだ。」
「どちらへ?」
珈琲をジノssiの前に置きながら、問いかける。
「タイのプーケットへ・・映画のプロモを兼ねた撮影でね。」
「そうなんですか・・・あの・・・どのくらい行ってらっしゃるんですか?」
「そうだな・・・一応予定は2週間くらいだけど、天候やら何やらで、もう少し延びるかな」
2週間・・・
私が心の中で、2週間という日数をかみ締めていると、ジノssiは、ちょっとふざけたように「残念だな、これで連日来店記録が止まってしまった。」と笑った。
それから、ジノssiは「帰国したら、真っ先に珈琲を飲みにくるよ。クーポン券もまだあるしね。」と、笑った後、「しばらく、ここの珈琲が飲めないのか・・・しっかり味わっておこう」と目を閉じて珈琲を口にした。
私はジノssiのカップの脇の小さなトレーに、そっとcafé chocolatを入れた。
ふわりと、甘くてちょっとほろ苦いセミスイートの香りが広がった。
その後、いつものように、たわいもない話を続けていたが、やがて、柱時計が緩やかに時を告げた。
「もうこんな時間だね。」
静かにそう言うと、ジノssiは席を立った。
いつものように、レジへ向かう彼の大きな背中を見ながら、後ろを歩く私の胸は、なんだかわけのわからない不安な気持ちで乱れていた。
2週間、会えない・・・
その事が、まるでグラスに走ったクラックのように、私の心を曇らせていた。
レジをすませ「それじゃ・・・」と言うジノssiの足がふと止まった。
「そうだ、これ」
突然バッグの中を探りだすと、何かを取り出し私の前に差し出した。
えっ?
見ると、それは空のフィルムケースだった。
「こいつを僕の代わりに置いていってもいいかな?」
「あの・・・・」
戸惑う私の手に、ぽん・・とフィルムケースを落とすと、「こいつに、一日のあれこれを話してください。もし嫌なことがあれば、これを指で弾き飛ばせばいい。」と笑った。
つられて笑った私の顔を見たあと、「あっ、ちょっと待って」と言うと、ジノssiは、私の手のひらからフィルムケースを取り、レジにあったペン立てからマジックを抜き取ると、ケースになにやら書き込んだ。
「はい、できあがり」
再び、ジノssiが渡してくれたケースには、にこにこと可愛らしい顔が描かれていた。
くすっと笑った私の笑顔にちょっと手を上げて挨拶をすると、ジノssiはドアを開けた。
「ありがとうございました・・・あの・・・ロケ・・・お気をつけて」
ためらいがちに言った言葉にジノssiは「ありがとう・・・」と、穏やかに微笑んだ。
その笑顔に、思わず「行ってらっしゃい。」という言葉が私の口をついて出た。
一瞬の沈黙、その後・・・
「・・・行ってきます。」
静かにそう言うと、ジノssiは、ドアの外に出た。
遠ざかるテールランプの光が、少し揺らめきながら小さくなってゆくのを、私はいつまでも見送っていた。
翌日、なんだか少し気が抜けたような気分で仕事をしていた私の目を覚まさせたのは、カウンターでまかないのサンドウィッチを食べながら、先ほどお客様が置いて出られた週刊誌をぱらぱらと捲っていたヒジンの「あっ!」という声だった。
何事かとヒジンの見ていた週刊誌に目をやると、そこには真っ赤な文字で大きな見出しが躍っていた。
『アン・ヨンヒ!!熱愛発覚!!今度のお相手は写真家のチャン・ジノssi!!深夜の密会現場を激写!!!』
「これって・・・・あのチャン・ジノssiですよね・・・」
ヒジンが小声で呟いたが、私の目は、掲載されていた写真に釘付けになっていた。
そこには、帽子を目深にかぶり、大きめのサングラスをかけてうつむき加減で歩くヨンヒssiの肩を抱いてかばうように歩くジノssiの姿があった。
記事には「共演者キラーと名高いアン・ヨンヒ、今回のお相手は著名な写真家のチャン・ジノssiのようだ。二人は毎晩この界隈で人目を避けて密会を重ねていた。ジノssiは近くの閉店後の珈琲店でわれわれの追跡をかわしていたが、ついに二人の密会の現場を激写!!人目を避けてバーから出てくるところを撮った!!」とあった。
「ここ・・・Bar bluemaかな・・・」
ヒジンの言うとおり、このバーには私も見覚えがあった。
祖母の入院している病院の近くにあり、昔から営業をしている格式のある老舗のバーだった。
お忍びで有名人が通っているとも聞いたことがある。
私も祖父に連れられて一度だけ行ったことがあった。
落ち着いた伝統と格式を感じさせながらも、ゆったりと寛げる大人のバーという印象では、さすがに伝説のバーと噂されるだけのことはあった。
確かに・・・確かにあのバーなら芸能人のプライバシーは守ってくれるだろう。
私は、紳士ななかにも毅然としたバーテンダーの姿を思い出した。
お客様のことは、決して口外しないだろう。
古い格式あるお洒落なバー・・・
女優さん・・・
深夜の密会・・・
うちを出たあと・・・・私が「ありがとうございました。」とお見送りした後・・・ジノssiはこんな世界に行っていたのね・・・・
いえ・・・そうじゃない・・本来の彼の世界はこちらだったのかも・・・
カララン・・・・
ドアチャイムが鳴った。
お客様だ。
腰を浮かすヒジンに「いいの、食事していて」と制して、私はカウンターを出た。
とにかく動いていたかった。
そんな私に「こういう写真誌ってほとんど嘘ばっかりですよねー」と気遣うヒジンに、なんとか笑ってみせたけれど・・
こうして、忙しく立ち働いてどうにか一日を終えた私はドアにcloseの札をかけた。
そして、鍵をかけながら、ふと夜空を見上げると、そこには上弦の月が群青色の夜空に朧に浮かんでいた。
この月はジノssiのいるプーケットの上でも輝いているのかしら・・・
私は、ふと浮かんだそんな想いを封じ込めるように、しっかりと鍵をかけると、お店を後にした。
翌朝、切れ切れの浅い眠りの後の、少し重い頭で、私は仕事へ行く準備をしていた。
何気なくつけたTVからは朝のワイドショーが流れていた。
チャン・ジノ・・・という言葉が聞こえてきて、私は思わずTV画面に目をやった。
私の目に映ったものは・・・
南国の空港に降り立った、アン・ヨンヒssiとジノssiの姿だった。
取材陣に囲まれながら、空港に通路を足早に歩く二人・・・
「婚前旅行ですか?!」
「海外で極秘に結婚するという噂がありますが?!」
「お二人は恋人と思っていいんですね!」
次々と投げかけられるレポーター達からの矢継ぎ早の質問の嵐の中を、ジノssiはヨンヒssiをかばうように足早に歩きぬけていった。
「イ・ソンギssi、ソン・ジェインssi、ハン・ジフンssi・・と次々と共演者との仲が噂されたアン・ヨンヒssi、どうやら今回は本気の恋愛の模様です。このまま海外で結婚ということになるのでしょうか?お互いの事務所はノーコメントを通しています。」
興奮した甲高い声で、レポーターが、早口でまくし立てた。
TVの中で、コメンテーター達が「極秘結婚だ」「熱愛だ」と騒いでいる画面を見ながら、私はどこか覚めた目で見ている自分に気がついた。
あんなふうに、帽子を目深にかぶり、サングラスをかけてレポーターの突きつけたマイクの中を歩く二人は、私にとってはTVの向こうの人だった。
月よりも遠い遥かな距離を、私は痛いほど思い知った。
その日、どんな風に店を開け仕事をしたのか、よく覚えていない。
ヒジンもあの騒ぎを見ただろうに、つとめて何事もなかったように振舞ってくれていた。
まるで、永遠に覚めない重苦しい夢の中を彷徨っているみたいな私の目を覚ましたのは、祖父からの電話だった。
祖母の容態でも急変したのかと慌てて病院に駆けつけてみると、祖母は少女のような寝顔ですやすやと眠っていた。
「もう、急に『病院まで来れるか?』って電話をもらったら、何かあったのかと思うでしょう?」
「すまん、すまん、急に思いたってな。」
祖父は私と明るい病院の庭を歩きながら、申し訳なさそうに頭をかいた。
「そろそろ、お祖父ちゃんたちのこの先を美尋にも話しておこうと思ってな。」
「この先?」
日当たりのいいベンチに二人して腰掛けた。
「お祖母ちゃんはもうすぐ退院できそうだ。でな、お祖父ちゃんはこの先、ずっとお祖母ちゃんの側にいてやろうと思ってな。」
「うん・・・・」
「思えばお祖母ちゃんには、ずいぶんと苦労をかけた。この際、ゆっくりと療養できるように、生まれ故郷に二人して帰ろうと思っている。」
「お祖父ちゃん・・・」
「田舎で二人してのんびり暮らすよ。お祖母ちゃんは、当分車椅子の生活だろうから・・・ほら、あそこなら海の近くだし、毎日砂浜を散歩できるしな。」
「寂しいけど、きっとお祖母ちゃんは喜ぶね・・・」
「それで、店の事だけど、美尋は何も気にすることはない。どうせ老後の道楽ではじめたものだ。閉めてもいいし、将来美尋がやりたくなったらやってもいい。美尋はあの店が大好きだったからな。しばらくはあのままにしておくから・・・」
「でも・・・・」
「美尋は図書館の仕事があるだろう?そうだな、この先、美尋が何か始めたくなったら、自由にあそこを使えばいい。珈琲屋でもいいし、違うことでもいい。美尋は本が好きだろう?本屋にしてもいいな。」
「お祖父ちゃん・・・」
「美尋の好きな本をたくさん並べて、隅っこで珈琲が飲めるのもいいな。そうなったらお祖母ちゃんと遊びに行くよ。でも急ぐことはない。ゆっくり考えて好きな道を選びなさい。」
「はい・・・お祖父ちゃん・・・・ありがとう。」
ベンチに置いた私の手にそっと大きな手を重ねると、祖父は慈愛に満ちた目で微笑んだ。
「美尋の人生だ。どんな道を選ぼうと、お祖父ちゃんはずっと応援してるよ。」
祖父と別れて家に戻った私の手元に、一通の郵便が届いていた。
勤務先の図書館からだ。
急いで封を切ると『緊急応援のお願い』とあり、『電子化を進めリニューアルオープンに向けて邁進して参りましたが、この機会に、書庫の整理をすることとなりました。つきましては、緊急に多数の人員が必要になり、応援をお願いする次第であります。』とあった。
書庫の整理・・・・
勤務先の書庫は地下にあり、それも地下1階から3階にわたり、膨大な数の書籍が収められていた。
閲覧室の棚卸だけでも3日はかかるのに、書庫の整理となると・・・・
ただ数を確認するだけじゃなく、中の状態も確かめるし、修復もしなければならない。
専門的な書籍や、歴史的に価値のある書籍も多くあるし・・・
それには、かなりの日数を要するだろう。
リニューアルオープンに間に合わないかも・・・
『美尋の人生だ。どんな道を選ぼうと、お祖父ちゃんはずっと応援してるよ。』
私の耳に、祖父の言葉が甦ってきた。
私は心を決めた。
ヒジンにも説明をして、数日をかけて常連さんたちにもご挨拶をした。
私は、店を閉めることにした。
いつかまた、店を開ける日があるかもしれない。
反対に、このまま、終わりにするかもしれない。
祖父は、私の好きにしていいと言ってくれた。
「ジュンソのやつが、就職できなくて、ここに逃げこんでくるかもしれないから」と、笑いながら、祖父は『誠に勝手ながら、店主都合につき、お休みさせていただきます。』と書いた張り紙に、「当分の間」と達筆な字で書き足した。
最後の日には、たくさん来てくれたお客様に祖父ともに、お礼を言いながら、珈琲を振舞った。
カウンターの隅っこには、ジノssiが置いていった例のフィルムケースがぽつんとあった。
ケースに描かれていた笑顔が、少しけ悲しげに見える。
・ ・・・お店を閉めることにしたの。ごめんね・・・
私は、心の中でそっとつぶやいた。
後片付けに残った私は、丁寧に心を込めて、隅々まで掃除をした。
ふと椅子の上に、置きっぱなしになっていた週刊誌に目が留まった。
表紙には、アン・ヨンヒssiとジノssiの写真・・・・
「雲隠れ?マスコミから完全に隠れて、二人は今、どこで、何を??」
見出しの字がけばけばしく躍っていた。
TVでは、連日二人のことが取り上げられていた。
やれ、もう結婚しただの、駆け落ちだというとんでもない噂まで出ていた。
騒ぎは一向に収まっていなかったが、二人の行方はマスコミにもつかめないみたいだ。
私は、週刊誌を取り上げると、厨房のゴミ箱にそっと捨てた。
掃除を終え、テーブルや椅子に白い大きな布をかぶせてゆく。すべての作業を終え、最後に店内を見渡す私の視界が滲んだ。
幼い頃から、ここが大好きだった。
本当なら、私が継ぐべきなんだろうけれど・・・
でも、まだ自信がなかった。
それに図書館の仕事も好きだ。
中途半端な気持ちでは、一生懸命この店を作り上げてきた祖父に申し訳ない。
今はまだ・・・気持ちを決められないでいた。
それに・・・どこか逃げる気持ちもあった。
小さくため息をつくと、私はドアを開けて店を出た。
がちゃり・・・と鍵をかける。
ごめんね・・・
私は真っ暗なお店に向かって呟いた。
いつかまた・・・このドアを開けることができたらいいけれど・・・
くるりと背を向けて、ゆっくりと歩き出すと、小さな前庭に置いてある水盤に目が留まった。
こういったものは祖父のもうひとつの道楽だ。
ちょっと名残惜しげに覗きこむと、水面に月が映っていた。
ゆらゆらと月影が揺らめいて、私の目の前で静かに波打った。
その途端、何故だか一気に胸が苦しくなった。
今まで抑えていた諸々の感情が、ものすごい勢いであふれ出てきた。
ジノssiが、時間外にこのお店のドアを開けてから、今日までの事が走馬灯のように、私の頭を駆け巡った。
スケジュール帖を忘れて・・・M-ヒロスペシャルをオーダーして・・・・クーポン券をゲットするんだと言って毎日来てくれた。・・・朝早く訪れてくれたこともあった。
弟さんの話、仕事での厳しい一面、かと思うと、ヌードの撮影だといって私をからかったり・・・・
そう・・・
恋愛と好意の違いを知らなかったのは私だ。
今思えば、デリバリーした撮影現場でも、ジノssiは女性スタッフととても仲がよかった。
年上のメイクさんとも、まだ若いスタイリストの女の子とも、気軽に話していた。
きっと私も「話せる珈琲店の女性」だったのだろう。
ジノssiと過ごした日々・・・
短かったけれど、楽しかったな・・・
倍くらい切なかったけれど・・・
でも、それが、恋というものかしら・・
恋・・・
そう・・・・私は、ジノssiに恋をしていたのだ。
人は、いとしさで溺れる事があるのだろうか・・・
目の前の水盤に映った月に問いかける。
恋って、美味しくって苦い。
まるで、あのcafe chocolatみたいに・・・
彼の微笑みひとつで、天にも登る心地になったかと思うと、彼がちらっと時計を見ただけで、泣きたくなったりする。
疲れをしらないハイテンションになったり、わけもなく涙がでたり・・・
見るのもすべてが心を写しているようで、月を見ては、彼の透明な横顔を想い、星を見ては手の届かない今が苦しい。
ほんのり甘くて、ほろ苦くて、深くて・・・
まるで、珈琲みたいだ・・・・
その熱さで胸が焼ける。
神様は意地悪だ。
もし、叶わない思いなら、なぜ彼に出会わせたの?
いとしくて、苦しくて・・・
水盤に手を浸すと、水が動いて月がゆがんだ。
水月・・・・
水に映った月影
掬えそうで掬えない。
そこで輝いているように見えても、決して、手にはできない・・・・
カシャリ・・・
私は心でシャッターを切った。
この月影は、私の恋の終わりの一枚のショット
ジノssiのあの微笑とともに、その写真を私は心の奥にしまいこんだ。
いつか、色褪せてセピアカラーになる日まで・・・