同じ日、、釜山のイ・スヒョンさんの故郷でも追悼式が開かれました。
イさんが卒業した高校に立っている追悼碑の前で、先生先輩30余名が集まって質素だが意義深い行事を開いたのです。
主婦、チョン・エラさんも幼い息子の手を取って追悼碑の前でしばらく立ち止まりました。
<録音>「困難と逆境も人生の一部分として受け止めて、いつでも切り抜ける勇気を持った立派な青年でした。」
幼い息子が将来、彼の精神にあやかった正義ある青年に育ってくれることを祈る心でいっぱいです。
<インタビュー>チョン・エラ(釜山 プアン3洞):「私の子供が今、6歳ですが、あのような考えを胸に秘める暖かい心の持つ子供に育ってくれればうれしいです。」
去る2001年1月26日午後7時15分 酒に酔った日本人が線路に落ちるとアルバイトを終えて家に戻る27歳のイさんはすぐに身を投げ出しました。
他の日本人も一緒に飛び込みましたが、3人とも全員電車に轢かれて亡くなりました。
事故直後、駅には追悼する人達の人だかりが出来ました。
日本のマスコミも韓国から来た正義ある若者の勇敢な行動を特別に大きく取り上げて日本全土を粛然とさせました。
<インタビュー>森喜朗(日本前総理/2001年):「2つの国の友好推進に架け橋の役割になったご子息の勇気ある行動が日本の若者達にも模範に成るようにするという意志をイさんのご両親にお伝えしました」
そして、、、10年の歳月が永遠に20代のままである青年のその日を知ってか知らずか。
新大久保駅はあの時、あの姿のままで忙しい日常で溢れかえっています。
日本に渡ってきたイさんがここ、新大久保駅で亡くなって10年の歳月が流れました。
しかし、未だ、駅の至る所にはイさんの正義ある死を偲ぶ痕跡がそのまま残っています。
韓日、2つの言葉で刻まれた追悼碑が行き来する人達の足を立ち止まらせます。
<インタビュー>ゆうこ(東京都民):「日本人には出来ないことだと思います。素晴らしい勇気のある方です」
事故以降、駅には非常停止のベルが設置されました。
人が線路に落ちたり、非常事態が生じた時、再びこのような悲劇が繰り返してはならないという世論の力でした。
<インタビュー>スズキ ノリミツ(東日本旅客鉄道広報課):「危険だと感じる時は誰でも押せるように分かりやすくしてあります」
イさんがアルバイトをしていたネットカフェは随分前に無くなり、その場所にはゲームセンターが出来ました。
ですが、周辺住民達は未だその日を生々しく覚えています。
<インタビュー>マツイ(上海プラザ不動産代表):「今は他人を助けるという考えは殆ど出来ないでしょう。大半は見て見ぬふりじゃないですか。ところが勇気を出して飛び込んで助けようとしたんですよ。そのような気持は本当に人間として最高だと思います」
=その3に続く= |