【 I'm loving you. 追憶 】 20話住職は子供のころから今の時代で言ういじめでしょうかと …いつも線香の匂いで悩まされていたそうだ。「 くさい。 くさい … 」 と、 これは防ぎようもなかった。クラス替えがあるたびにこのクラスは嫌だという子供も出てそのような事が根にあり歴代直系男子に継がれていたが住職は国立大学の法科を専攻し わが道を行くから自分をあてにしないでほしいと家をでたらしい。大学で先輩の父親と同席していたと話した。司法試験2度目の合否の発表の日に父が倒れ 2度で合格するとは思ってはいなかったがやはり落ち込んでいる時の出来事でしばらくは反抗もしてみたが厳しい修行の道を選び結局今に至っていると …そんな住職に先輩の父は悩みを相談するというか愚痴りに ある時期よくここにきていたそうだ。先輩の家系は祖父も父も裁判官でお父様は今なお現役で勤められている。私と同大学の法科に通っていた先輩は司法試験も一発合格で誰もが父や祖父のあとを進むものと思っていた。勿論 私もそう思っていた。先輩自身もそう思っていた。ある日 突然外国に旅立ってしまった。私には ” お前が卒業するころには帰ってこようかな~ ”と メモを残しその間 何も連絡がなかった。あとで知ったが ご両親にも ” 急遽旅立ちます。 またお会いす日までお元気で … ”確かそのような書き置きだけを残しご両親は行き場のない心中を住職に …この場所が心を落ちつかせたのだろうと思った。1年ぐらは私のところにも何度もご両親から何か連絡はないかと聞き合わせがあった。そんな先輩が帰ってきたのは私が卒業し国家試験の発表もあり大学の付属病院に医師として勤め始めたころひょっこり訪ねてきた。まずは数日私のところで過ごしながら頃を見計らって実家に話に行くという筋書きができていたようで先輩は遂行した。のんびりしているのかと思っていたがめまぐるしい日を過ごした。何がそんなに忙しいのかと聞いても 「 まあ~ まて まとめて話すからと … 」私もそのころ新米医師で週のうち2-3日程度帰る生活で先輩にしては好都合のようだった。身の回りのものはすべて処理しての帰国で少し大きめのショルダーバッグがひとつだけにも驚いた。気がつくと私のもので生活していた。帰国10日ほどで実家に行き 突然「ただいま。 私が受け継ぐ遺産を生前贈与してほしい。」と 理由も話さず言ったから大事件に …その時もただちに住職のもとに両親は駆け込んでいたようだ。その当時のことを話された。結果いくらいるかと聞かれたがもらえるだけと答えいくらかを手渡されご両親も堪忍袋の尾も切れたのかこれで二度と私たちの前に顔を出さないでほしいといわれたと先輩は話していた。その時期のご両親の心境を住職が話された時にはさすがの先輩も涙していた。今まで知りえないまた入り込めなかった部分を 先輩が語った。どうして急に法の道を捨てたのかという部分?祖父も父も尊敬し当然自分もと一心に勉強したというより吸いこまれていくように時間を惜しんで苦にならずその日まで過ごしてしたらしい。しかし、ほんの一瞬 何かが今までと違うと感じるようになりこれは? なんなんだ!今までと同じこと考え行動しているにもかかわらず一日 いちにち時間が過ぎていく中で 自分の心がする減っていくような感じが …今までの歩んできた道のり 法の道への思いが …絶叫しそうな自分が …おかしくなってきていると感じ出した時には旅立っていた。 と …空港につき 一番早く海外に行ける便に飛びのり日本をあとにした。際わいと言うかフランスが踏み入れた国だった。とにかく宿もなく気ままにその辺りで … その辺りと言うのは公園だったり駅だったりすわり心地のいいベンチや椅子でうとうと仮眠し身体をゆっくり休みたいと思うと行き当たりばったりでホテルに泊まりそんな日々を過ごし食べるという意欲もなく数週間過ごしていたらしい。ある日ふらっと入ったホテルで朝目覚め豪華でもない食事を食べた時 料理に目ざめまたらしい。私は驚いた。長きにわたり努力のたまものを一瞬に捨て料理の世界に飛び込んだのには相当の事がと私の中で美化されていいたのだろう。先輩が話すには水分はよくとっていたらしいが日本を発ってからろくな食事はしていなかったようで、自分の消化器官が無の状態でご馳走でもない些細なもので感動したのだろうと …これが場所が変わればカレーだったかも中国だったら中華料理韓国だったら焼き肉や韓国料理だったかもと笑っていたがそれから短期間で気がついたら5キロも体重が増えたほど食べ続けただ食べるのではなく雰囲気やそこで働く者 あらゆる角度から そこは一度、はまるととことんやりぬく先輩。街角のコーヒーテラスから高級レストランまで…幸いしたのは多くの素晴らしい出会いであり何箇所か 住むに困らない場所もあったそうだ。お金だけはそつなく持ち出していた。そのお金は決して家のおかねを持ち出したのではなく小さいころから自分用の名義の通帳があり親戚等お年玉であったりお祝い事にいただいたものを貯金していたものが 結構な金額になっていたのでそれらを切りグズしていたらしい。あっという間に百万円ぐらいは消えたそうだがその後は食べることも住居も衣類等は不自由のない生活をしていたらしい。そのあたりは、人徳というか誰にでもといかないが気に入られると大事にされる素質は天声のものと思うぐらい要領よくふるまう。十分身体を休ませていたせいか肉体労働も苦にならず身体を動かしていることが快感でもあったらしい。また、もともと何につけ好奇心旺盛が皆に重宝され正式に職を持つということはできなかったが使うところがないので現金はたまっていった。フランス語は英語よりは劣るが生活して行くには困ることはなかった。肉体労働は荷物運びをしたり店番をしたり料理の下準備を手伝ったり頭脳労働と言うかそちらはパソコン関連 国際弁護士ではないがまったく素人でもないのでその手の処理 日本人 もしくは二世だったり国際結婚されていたりの成功者の方々の中で重宝されこちらが収入源になっていたらしい。与えられた仕事をこなしただ寝るだけの生活が何も考えないでよかったらしい。人手がないと食材の搬入の力仕事。搬入先で人手不足と言うことで食材の下準備。そこで料理の調理に目覚めたらしい。ちょっとした工夫で人を幸せに優雅にする。いつも行くわけでもなかったが疲れた身体や心を一杯の日本言うココアが心を落ち着かせたらしい。優雅な雰囲気の中でこんなところがあればと思いだしたら いちもくさんに …いらなくなったパソコンで 日本で店をなどと思い巡らせながら物件を見ていたらしい。ある日ふと懐かしい地名に …調べていくと古くなった店をオーナーも年を取り 引退するので売りに出ていた。それが引き金となり急遽帰国。その場所を見事に改築し現在に至っている。一番お金をかけたのは店の中央に置かれたグランドピアノだった。先輩の差し入れの食べ物もそれぞれが手を伸ばしなくなりかけた時に少しづつだったかポットに入れてきたコーヒーを皆で分け おいしく飲んだ。住職と祖父が顔を見合わせ意味ありげな笑みをこぼした。彼女達の祖父が語りだした。