ドンヒョクはジニョンを伴ってサファイアのヤンを訪ねた
「フランク・・・・どうしたんだね・・
明日、空港で会うはずではなかったかな・・・
それに・・・ジニョンさん・・奥様もご一緒とは・・・」
ヤンはドンヒョクの傍にジニョンがいることに、少なからず動揺していた
「遅くに申し訳ございません。大事な話があったものですから」
「大事な話・・・」
「はい、明日のアメリカ行きをお断り申し上げると。」
「・・・・その理由は。」
ヤンは俯き、少し間を置いて、ドンヒョクを改めて見た
「妻が嫌がりますので。」
ヤンに向かってフランクは、少しだけ左の口角を上げ笑って見せた
「ははは・・それは意外なことを・・・
君に仕事より優先するものがあったとは・・・信じられない」
「残念ながら・・・
私は昔の・・・あなたがご存知のフランク・シンとは違います」
「向こうでは、大きな仕事が君を待っている・・・
今後の君という男の位置付けに大きく影響すると言っても
決して言い過ぎではないだろう
君にとって、これ以上の仕事は無いと思うが?」
「はい確かに・・・喉から手が出るほどに欲しい仕事です・・・
しかし、それも、あなたの企みに沿うことが条件ならば
潔く諦めます」
「諦める・・」
「あなたとは、ここで決着をつけましょう」
「決着?」 ヤンはドンヒョクを見据えたまま、彼の言葉をただ繰り返した
「ええ・・・私の部下が、今あなたの会社に向かっています」
「私の会社に?・・・いったい何のために」
「ビル・スミス氏に会うために。」 そう言ってドンヒョクは、
ヤンのそばに立っていたロイ・スミスに一度だけ視線を向けた
ロイは少しだけ困惑の表情を見せたが、無言で、ヤンの言葉を待った
「ビルと?・・・・フランク・・・その前に・・・
この話は、奥様の前で話してもいいことなのかな・・・」
ヤンはこの時、第一にジニョンの想いを慮って、彼女に視線を向けた
「構いません・・・彼女は全てを知る権利がある」
ドンヒョクはきっぱりと言った
「ジニョンさん・・あなたも?」≪覚悟があるのか・・≫とヤンは聞いた
「ええ、何を伺っても驚きません。」
ジニョンもまた、ヤンを真直ぐに見て、ドンヒョクと同じように言い切った
「そう・・・
それで?ビルと会って君はどうするつもりかな?」
ジニョンに対して優しい口調で頷いたヤンは、厳しい視線に変えて
ドンヒョクの方にそれを移した
「私の持ち株を全て売ります。」
「持ち株?確か、君の・・・」
「32です」
「ほー・・随分集めたね・・・いったいどうやって・・
いや、流石だと褒めた方がいいかな・・そして・・
それを、ビルに?・・・なるほどそういうことか・・・」
ヤンは頭の中で、ドンヒョクの思惑を組み立て、納得した
「しかし、あいつはそんな大金用意できないと思うよ・・・なあ、ロイ」
そしてヤンはロイに穏やかな視線を流した
「えっ?あ、はい」 ロイは向かいに立つドンヒョクの顔を凝視したまま、
そう答えた
「いえ、買ってくれるはずです。・・・彼に対して
売主である私が“言い値で譲る”・・そう約束しますから。」
「言い値?莫大な額だ・・・そんな奇特な人間がいるのかね
君・・・全財産を失うことにならないか?
いや、それでも到底足りない・・な・・おそらく」
ヤンは驚きと愉快さを合い混ぜたような表情で、そう言った
「ええ・・・到底・・足りません。」 ドンヒョクは承知している、
と言わんばかりに肯定した
「どうしてだ?・・どうして、そこまでやる?・・・
この仕事をやれば、間違いなく君の地位は安泰・・・
その上、私の持つもの全てを無条件に譲ろうと言っている
どうして、それを受けない・・・・」
ヤンが不思議そうにドンヒョクを見ると、彼は“フッ”と笑って見せた
「その答えは簡単です。何よりも失いたくないものがあるから」
「失いたくないもの?」
「ええ、今私は凄く後悔している・・・もっと早くこうするべきだったと・・・
余計なことを考えてしまった
何んとか被害を最小限に留めることを・・・
しかし間違っていた・・・これは・・・
愛するものを悲しませてまでする勝負ではない。
私にとって、失いたくないものは・・・この世にひとつだけ。
それを守るだけなら他の全てを捨てれば済む。
しかし、私には守らなければならないものが他にふたつある
そのために、あなたにこうして勝負を挑んでいるんです
今なら、間に合いますよ・・・私の部下は私の指示を待っている
あなたが・・・私の条件を呑んで下さるなら・・・・」
「条件とは?」
「条件は三つ・・・
ひとつは僕の配下に手を出さないこと・・・
ひとつはこのソウルホテルから手を引くこと・・・
そしてもうひとつは・・・私を諦めて欲しい・・・」
「三つも?」
「この三つは譲れません。
・・・しかし、あなたにとって決して悪い条件ではない
要は、私への執着を捨てるだけで、あなたの命が救われる
そう思いませんか?
その代わり、私は、今持っている仕事も財産も捨てる。
それが・・・あなたのいう報復・・・そう思って頂ければいい」
「それで君は・・何もかも無くす・・そういうことか・・・」
「いいえ、言ったはずです・・・この世で失いたくないものはただひとつ
それだけはこの手に残る。
それで十分だと言っているんです」
そう言いながらドンヒョクはジニョンの手を握った
ドンヒョクの真意を聞いた後、ヤンは一度だけ溜息を吐いて
ジニョンに視線を向けると小さく微笑んだ
「・・・・ジニョンさんはいいのかな・・・
この男はこの瞬間、仕事も財産も全て失うよ・・・
あなたは・・・男としての彼に・・・そこまで望みますか?
彼のことを心から愛しているあなたが・・・
彼の将来を奪ってまで彼を望みますか?」
「何を言ってる!私がそれでいいと言ってるんだ。」
ドンヒョクはヤンに向かって声を張り上げた
「彼女に聞きたい!・・・ジニョンさん・・・どうですか?」
ヤンもまた、一瞬声を張り、その後静かにジニョンに聞いた
ジニョンは彼の問い掛けに、少しだけ沈黙した後、ゆっくりと口を開いた
「・・・・・・・・・・ヤン様・・・先日、あなたに申し上げたことがあります
私達夫婦は半身同士・・・どちらかをもぎ取られたら人間で無くなると・・・
覚えていらっしゃいますか?
ヤン様・・・そんな私達が・・・
人間でないまま生きていて、何が幸せでしょうか・・・
妻として、夫の将来を奪ってまで・・・そうおっしゃいましたが、
私は、決して彼の将来を奪っているとは思いません
私達は人間として・・・ふたりで生きて・・・未来を歩きます
それに、彼はそんな柔な人間ではありません・・・
マイナスからでも、必ず這い上がってくる・・・そんな人です
彼が這い上がって来た時・・・
そこには私が待ってなければいけないんです
ただ・・・どうかお願いです、私は彼と一緒にどんなことにも立ち向かいます
だから・・私達のことで他の人達に災いを向けることだけは
お止め下さい・・・お願いします」
ジニョンは言い終わると、高揚した様子で“ふー”と長く溜息を吐いた
ドンヒョクはそんなジニョンを愛しい眼差しで見つめた
ジニョンもまた、ドンヒョクのその眼差しに応えて微笑んだ
二人の様子をしばらく見ていたヤンは座ったまま顔を背け、目を閉じた
そして、しばらくの沈黙の後、二人の方にゆっくり振り向いた
「君への執着・・か・・そうだね・・どうしてこんなにも執着したんだろう
私はね、フランク・・・娘を・・アナベルを愛している
妻との生活は味気ないものだった・・・
仕事に生きる私と、私に興味を示さない妻・・・
でもアナベルは可愛かった・・・
私は、自分がリタイヤしてソウルで余生を過ごすと決めた時
その前にアナベルに幸せを用意してやりたいと思った
私はその頃、ひとりの男に注目していた
君を初めて見た瞬間から、私は君に強く惹かれていたんだ
仕事の実力は言うまでも無いが、もうひとつ・・・
君に惹かれた理由がある
それは、君の目だ・・・
君の冷たい鋭い目の奥に愛を求める寂しさを見た
しかし、この男は自分に愛する者が出来た時
きっと命を掛けて守りぬく男・・・何故だかそう確信した
私には出来なかったこと・・・・君はきっとそれが出来る男だと・・・
だから、君が欲しかった・・・娘の為に・・・
理不尽と思うだろうが、君を必ず手に入れる、そう決心した
幸い娘も君を心から愛していた・・・
君に愛されるような女であれば、君もきっと愛してくれる
自分の子供を褒めるのも可笑しい話だが、
アナベルは人の心を安らかにさせる
私は、あの子にずっと救われていた・・・
あの子はきっと君を救うことが出来る、そう思った
君の中の氷はあの子によって溶かされていくはず
そして君は、必ず娘を愛してくれる
君にさえ愛されれば、娘の幸せは保証される・・・そう思った
しかし君は・・自分を救う人を・・自ら見つけた・・そういうことだね・・
ジニョンさん・・・
あなたが人間で無くなる姿は・・・見たくはないな・・・」
ヤンはそこまで朗々と話すと、ジニョンと接していた時のように
穏やかに笑って見せた
「私はとっくに人間で無くなっていた・・・
ジニョンと・・私のジニョンと別れたあの日から。
ジニョンさん、
あなたの前で本性を現さなかったこと・・・許してください
こんな私でも・・あなたには何故か嫌われたくなかった・・・
あなたのご主人は私が思っていた以上に、愛するものを守りぬく人だった
ある意味、私の目に狂いはなかったということだな」
そう言って、ヤンは弱弱しく少しだけ声を立て笑った
ドンヒョクもジニョンも、ヤンの言葉をただ黙って聞いていた
「フランク・・・・手を引こう・・・君から・・そしてこのホテルからも。
しかし、仕事はしてもらう・・・もちろん、ソウルからで構わない
もう、君が引き受けないと周りが許さないだろう
君の部下に指示を出して、君が主導してくれればいい・・・
それから、我社の株・・・君にはそんなに必要無いだろ?
随分と集めたようだが、私が引き取ろう・・・言い値とは言わない
相場の価格で・・・それでも君は少し損をするだろうが・・・
それは仕方ないね・・・それが私の・・報復、だ」
ヤンは冗談を言うようにそう言って、続けた
「いずれ・・・ここにいるロイにそれを引き継がせる・・・
それで、ビルも納得するだろう・・・それでいいか、フランク」
「ご決断・・・感謝します」
「アナベルにも・・・君を・・・諦めさせなければならないな」
「駄目よ・・・・」 その声がドアの向こうから聞こえ、ドアがゆっくりと開いた
・・・アナベル・・・