【 koko の Valentine's Day
】 1話
やっと教授から頼まれた資料の整理が一区切りつき、
時計に目をやると8時になろうとしている。
今日は、何かとざわついた一日だった。
女性達が男性に義理チョコを配り、
義理とわかっていてもうれしそうな男性達。
夜には本命チョコを渡すため、受け取る者達のデートで
いつになく早い時間帯に研究室は静かになった。
この習慣になじめず、
物心ついた頃から横目で眺めていることが多かった。
3歳年上の姉が小学生の高学年になった頃、
「
私は、お勉強は、だ~い嫌いどす。
」
と 言い切り、
机にはほとんど座らないその姉が、この日が近づくと机に向かう。
小学校に入ったばかりの私を連れてチョコレートを買いに行く。
いつも5つぐらいは買い込んでいたと思う。
「
koko は買わないの?
早く買いなさい!」
さんざん待たせておいていつもさっさとレジにいく。
ひとつさげていくと 「 ひとつだけ!
」
と言われるのでいつのころからかふたつ買うようになった。
家に帰ると姉にはこっそり
その日のうちに自分で食べるというのもこの時期の行事の一つだ。
私が寂しがるということで、姉とは私が小学生の間、
同じ部屋を二人で使っていた。
包み紙が見つかると大変な騒ぎになるという直感だけは働いた。
食べ終わり、包装紙の捨て場をさがしていたら、たまたまそこに父が
…
「 これどこか、 と~~くにすててね
」
と渡し、それ以後 食べ終わると父を探し包装紙を手渡した。
父も不思議そうな顔はするが、きょとんとしながらも受け取ってくれた。
あとで知ったのだが、父はその包装紙を母にわたしていたらしい。
母は父から手渡された包装紙を、
その頃の呼び方で、女中頭の節子さんに渡していたらしい。
節子さんは、
収集癖があり奇麗にしわを伸ばし本の間にはさみ、ため込んでいた。
数年前、このことが解明した。
元気印の節子さんは、還暦をむかえ数年たった頃、
病魔におかされ数ヶ月で他界した。
節子さんは、成人をむかえる前に
花嫁修業と言うことで我が家で生活するようになったらしい。
1~2年が、そのまま40年以上も生活を共にした。
身内は、と言うか親族はたったひとり姪ごさんがいた。
荷物の整理にこられた時になつかしい包装紙に再会した。
整理と言っても身の回りはいつもきれいに整理されていたので、
運び出すための荷造りをすると言う作業だった。
母と夏休みで帰っていた私が手伝ったと言うか、
邪魔をしていたと言った方が
…
片付ける姪御さんのそばでひたすら、 思い出に酔いしれていた。
本の間からぱらぱらと数枚綺麗な紙が床に舞いおちた。
母が
「
あら! なつかしい~ お父さんが私にこれ捨てておいてと渡され、
節子さんに 「 捨てておいてね。」
と頼んだ包装紙だわ。
綺麗な包装紙だったから覚えているわ。
そうそう。
いつもお父様にきこうと思っていたのに結局、 聞いていなかったわ。
この包装紙ってどうして私に
… なんだったのかしら?
」
私は何気なく母の興奮気味に話す話しを耳にしながら
なつかしい思い出がつぎつぎとあらわれる方に気がいっていた。
「
ねえ~ これいただいていいかしら?
」
母が節子さんの持ち物をほしがった。
その言葉に驚き、振り返ると手にもたれた包装紙は記憶にある。
姉、こお子に連れられ、チョコを選ぶ私の基準は包装紙にあった。
チョコの良し悪しなど幼い私にわかるはずがない。
きれいに包装されたものを選んでいたように思う。
そして、包装紙の行先が数十年ぶりに点が線となりつながった。
中学に入学した頃、姉が父にチョコを渡すのを見た。
不思議そうに眺めていた私に父が気付き、
「
koko からはいただけないのかな~
」
その年からふたつのうちのひとつを父だけに渡すようになった。
このチョコはお父様に渡すものだったのか?
と それから数年思い込んでいた。
私は、この習慣と言うか、行事には一生無関係だと思っていた。
大学生になり京都の実家を出た。
父の知人が所有者という神戸のマンションに住むようになってからは、
父へのチョコは、少し早めに郵送で事を済ませている。
母から聞いたのだが、バレンタインデーの当日より少しでも、
私からのチョコがおくれると、父はそわそわ、うろうろし、
回りの者が落ち着かないから、できれば早めにという申し入れがあった。
それ以後、早めに済ませている。
そして、もうひとり …
バレンタインデーに、 父に渡すチョコとは別のチョコレート。
ひょんなことから最初に手のひらにひとつのせたチョコ。
同じチョコを少し数は多くなったが6年間手渡してきた。