降りしきる雨の中 マンションの前に一台のタクシーが滑り込むように停まると
ドアが開き 中から莉子が降りてきた。
そして、傘を広げて身を屈めると 車内にいる誰かに向かって何かを言っているようだった。
その後、タクシーはゆっくりと動き出し 莉子はそれを見送っていた。
雨の中 彼女は佇んでいた。
すぐにマンションに向かって歩いて来ると思っていたのに 予想に反して
莉子は車が走り去った方向へと歩き出した。
「…莉子?」
マンションのエントランスホールで 莉子が来るのを待っていた崇史は
その意外な行動に驚き、急いで彼女の後を追い始める。
外に出た崇史は傘を広げると足早に歩き出した……。
“俊さんと莉子さんって、本当にただの先輩と後輩の関係なの?
もしかして、二人は付き合っていたんじゃない?
…崇史だけ知らないとか… 違う?”
ほんの少し前、自宅で生徒の成績表を見直していた時 突然かかってきた薫からの電話。
“軽蔑されてもかまわない。崇史に告げ口しようと思って電話したの”
薫のきっぱりとした、意志の強い声が耳元で響いた。
“二人が… 莉子さんが崇史を傷つけるようなことをしたら わたし、許さない!”
“…違うんだ、薫… そうじゃないんだ …本当に大丈夫だから…”
莉子のことを思うと、事実を告げることは出来なかった。
崇史は薫からの電話を切ると 立ち上がって窓から外を眺めた。
雨が降っていた。
もう大丈夫だと思っていた。
辛かった記憶はもう薄れたはずだった。
莉子と俊のこともわかっていると思っていた。
二人のことは信じていた。
なのに… 心のずっと奥深くに 見えないほど小さな不安の欠片を見つけてしまう。
雨は自分が大切だと思う人を どこかに連れて行ってしまう…
数分後、崇史は部屋から飛び出していた……。
足が速い莉子が交差点を渡り切った所で まるで彼女を追いかける崇史を邪魔するかのように
無情にも信号が赤に変わった。
莉子を呼ぶ崇史の声は 行き交う車の音にかき消されて彼女には届かない。
だが、その時 崇史は莉子がどこへ向かっているのか気づき始めていた。
“あの… 今日、わたしが泣いたことは崇史さんには言わないでください
彼の子供の頃の話を聞いたから…そのことで泣いたなんて…きっと悲しむから…”
タクシーの中で 莉子は隣に座っている真山に言った。
レストランを出た後 まだ電車があるからと遠慮した莉子を 雨だから送って行くと
真山は半ば強引にタクシーに押し込んだ。
“莉子ちゃんはホントに崇史のことを一途に思ってるんだな”
真山は真剣な顔でそう言い、少しだけ切なそうに笑った。
莉子は一瞬、目を丸くしたが すぐに はい、と小さくうなずいた。
見る見るうちに莉子の頬は赤く染まっていく。
真山は 黙ったまま眩しそうに そんな莉子を見ていた。
「今日はご馳走様でした」
莉子は 真山に挨拶し、タクシーが見えなくなるまでその場に佇んでいた。
傘を差して しとしと降る雨の音を聞いていたら いつの間にか莉子の脳裏には
崇史の顔が浮んでいた。
…崇史さんは今頃、何してるのかしら…
無性に崇史に会いたかった。
溢れ出す思いのままに、莉子はマンションとは反対の方向へ歩き出していた。
傘をたたんでマンションのエントランスに入ると 莉子はオートロックの
崇史の部屋の番号を押した。
何の反応もないので 留守なのかとひどく落胆した。
連絡もせずに来てしまったことを後悔し、少し待ってみようかと思った時だった。
「…莉子!」
驚いて振り向くと、崇史がちょうどエントランスに入ってくるところだった。
「崇史さん!」
「莉子はやっぱり足が速いな」
「え?」
「莉子を追いかけて来たんだけど間に合わなかった」
「崇史さん?」
「今まで莉子のマンションの前で待ってたんだ」
「やだ、そうなの?」
「…タクシーで帰って来たよね?」
「ええ。 急ぎの仕事が終わって、真山さんが夕食をご馳走してくれたの。
それで雨が降ってきたから送ってくれて…」
莉子の話を聞いていた崇史は黙って頷くと 彼女の肩に手を回し
自分の方にぐっと抱き寄せた。
「崇史さん?」
「…部屋に行こう。 話はそれから聞くよ」
いつもと違った様子の崇史に戸惑いながらも、莉子は黙ったままこくんと頷いた。
崇史は莉子の髪に唇をそっと押し当てた。
彼女の髪は微かに雨の匂いがした……。
部屋に入ると、いきなり崇史は莉子に唇を重ねてきた。
まるで、待ちきれなかったかのように強く激しく莉子の唇を貪るように包み込む。
今までの崇史なら キスの始まりは、莉子の唇にそっと触れて彼女の様子を確かめてから
やわらかく、優しく、何度も繰り返しながら深く重ねていったのに…
息もできないほどの荒々しく熱い口づけに 莉子は体を震わせ、戸惑いながらも
何とか受け止めようと必死だった。
「…崇史さ…ん…」
一瞬、唇が離れた時 莉子は不安げな顔で崇史を見上げた。
「…何かあったの…?」
だが、崇史はそれには答えず 黙ったまま莉子をすっと抱き上げると隣の部屋へ
連れて行きベッドの上に彼女を下ろした。
有無を言わさず寝かされた莉子の上に 崇史の大きな体が覆い被さってきた。
突然の出来事に 莉子はあっと短い声を上げたが、崇史には何も聞こえないのか
そのまま 雨でしっとりしている莉子の髪をかき上げて 乱暴に唇を塞ぎ
何度もキスを繰り返す。
まるで、どこに向けていいのかわからない怒りをぶつけているようなキスだった。
崇史の熱い唇は莉子の唇から顎、首筋を伝わって下りていき
もどかしそうに莉子のブラウスのボタンを外すと 露わになった胸元に押し当てられた。
「崇史さ…ん? どうし…」
戸惑う莉子の声は容赦なく崇史の唇で塞がれ また激しく奪われてしまう。
そして 崇史の手は 彼の下で押さえ込まれている莉子の体の上を彷徨い出した。
性急に動き出した崇史の手は 莉子の胸から腰へ そして、スカートの中に伸びていく…
「あっ…!」
短い悲鳴とともに莉子の体がびくっと動いた。
崇史ははっと息を呑んで莉子を見た。
怯えきった莉子の瞳から涙が溢れ出し、白い頬を伝わって髪を濡らしていった。
それでも莉子は抗うことはせずに 崇史の痛いほどの思いを必死で受け止めようと
ゆっくりと目を閉じた。
閉じた睫毛がふるふると震えている…
崇史は目が覚めたような気がした。
「…ごめん…」
擦れた声で崇史は言うと 莉子の背中に手を入れて彼女の体を起こし
肌蹴たブラウスのボタンを留めてそっと抱きしめた。
莉子は体を震わせながら崇史の胸の中で泣き出していた。
「本当にごめん… 僕が悪かったよ」
崇史は後悔で胸が押し潰されそうだった。
自分の欲望だけで 大切な莉子を思いのままにしようとしていたことに気づいた。
いつものように 優しく見つめたり、笑いかけることもせず 莉子の問いかけにも
答えようとしないで ただ莉子を自分のものにしようとしてしまった。
すすり泣く莉子の背中を何度も撫でて、そしてまたぎゅっと抱きしめた。
「崇史さん…」
「ごめん 莉子…」
「…謝らないで… 崇史さんは悪くない…」
「莉子…」
「わたしがいけないの… 崇史さんが怒っているのは… わたしのせいよね?」
「え…?」
「真山さんと一緒だったから… それで怒ってるんでしょう?」
「莉子…」
「…もう… しないから… 真山さんとは仕事以外で会ったりしないから…
だから怒らないで… 何でも崇史さんの言うとおりにするから…」
あまりにも一途な莉子の言葉に 崇史は愕然としてしまった。
そして 莉子にこんなことを言わせてしまった自分に腹立たしささえ感じた。
「…そんなこと言うんじゃない… 莉子は何も悪くない」
「………」
「僕は自分に怒ってるんだ。
何で莉子の言うことだけじゃなく 他のことまで耳を傾けてしまうんだろうって。
…莉子のことを一番知ってるのは僕のはずなのに…」
「崇史さん…」
「怖がらせてごめん…」
ううん、と莉子は首を横に振ると ふわりと微笑んだ。
崇史はほっと胸を撫で下ろし、笑顔を取り戻した莉子の頬に光る涙を指で拭った。
「わたしも…泣いたりしてごめんなさい。
…その… いつもの崇史さんと違うから… びっくりしちゃって…
本当に子供みたいで… 崇史さん、呆れちゃったでしょう? 」
莉子はそう言うと、それまでの出来事を思い出して頬を染めた。
その時、崇史は確信した。
…体を重ねることだけでなく キスにも慣れてない…
そのことは初めから気づいていた
そんな莉子が僕のために 必死でついてきてくれたのに
俊とは何もなかったのだと… 初めからわかっていたのに…
自分の愚かな誤解に気づいた崇史は 目の前で恥ずかしそうにうつむいている莉子が
ますます愛おしくなってきた。
崇史は莉子を引き寄せて胸の中に包み込んだ。
「…好きだよ」
いつものように囁き、そして莉子の小さな顎に指を添えるとそっとキスをした。
「わたしも… 好き…」
今度はうっとりと目を潤ませた莉子が綺麗に微笑んだ。
…もう一度 初めから… いい?
崇史の甘い誘いに答える代わりに 莉子はそっと腕を伸ばすと
しなやかに崇史の背中に手を回した……。
ベッドの中で すうっ…と眠りに入ってしまった莉子の体を抱き寄せると
無意識のうちに莉子は崇史の胸の中に寄り添ってきた。
崇史は乱れた莉子の髪を何度も撫で付けて 愛おしげに唇を寄せた。
甘く濡れた莉子の髪はとてもいい香りがした。
「…ん… たかしさ…ん…」
寝言で名前を呼ばれた崇史は思わず笑ってしまった。
…かわいいな…
こんな莉子が嘘をつくはずないのに…
今までの莉子を見れば すぐわかったことなのに
崇史は自分がこんなにも嫉妬深いとは思わなかった。
「ごめん 莉子…」
すやすやと眠る 莉子の頬にキスをしようとした時だった。
ベッドのサイドテーブルに置いた電話が鳴り響いた。
莉子を起こさないように 崇史は急いで受話器を取ると
ゆっくりと起き上がってベッドに座った。
そして 眠っている莉子に背を向けたまま静かに電話に出た。
「…はい。 そうです、真山ですが… ああ、広田君の…
え? そうなんですか? それで携帯電話には… そうですか。
…わかりました、僕も生徒が行きそうな所を探してみます。
あ、お母さんは家にいらしてください。
はい、悠斗君から連絡があるかもしれませんから… … ……」
しばらく話した後、崇史は電話を切るとサイドテーブルの上のデジタル時計を見た。
もうすぐ日付が変わるところだった。
「…崇史さん?」
名前を呼ばれて振り返ると 目を覚ました莉子がダウンケットを胸まで引き上げながら
ゆっくりと起き上がった。
「どうしたの? 電話はどこから?」
莉子が心配そうな顔で訊いたので 崇史は安心させるように彼女と向き合って座った。
「ごめん、やっぱり起こしちゃったな」
「ううん… それより 何かあったの?」
「うん… 今、クラスの男子生徒のお母さんから電話があって
今日 その生徒が塾に行ったきり、まだ帰って来ないそうだ」
「まあ」
「塾の授業はとっくに終わって、いつもなら10時過ぎには帰宅するらしくて…
携帯も留守電になってて連絡が取れないらしい」
「こんな遅くまで? 心配ね…」
「とにかく、彼と親しい子の家とか 生徒が行きそうな場所を探してみるよ」
「…わたしも…探しに行く!」
思わず言ってしまった莉子に崇史は困ったように笑った。
「ばかだな、莉子は… そんなこと言って、その生徒の顔も知らないだろう?」
「でも、手分けして探したほうが早く見つかるかも…
写真は? 確かクラス写真が…」
「あるけど、小さくてよくわからないよ。
それに… こんな夜遅くに、繁華街を莉子一人で探してもらうわけにいかない。
危なっかしくて そっちの方が心配になる」
「でも…」
「大丈夫だから、莉子はここにいて。
もしかしたら その生徒から連絡があるかもしれないし…」
「……」
「一人にして悪いけど、今日は帰らないでここにいて欲しいんだ」
「…わかったわ。崇史さんが帰ってくるまで待ってる」
「ありがとう、先に寝てていいから…」
崇史はそう言うと莉子の額にそっとキスをした。
莉子は恥ずかしそうに笑うと、ゆっくりと目を閉じた。
…心配しなくても大丈夫だ、すぐ帰って来るから…
崇史はそう言うと莉子に笑いかけた。
莉子はその崇史の顔を見て安心したようにうなずいた。
崇史が部屋を出て行った後、それまで止んでいた雨がまた降り始めた。
ふと不安になった莉子は 窓から空を見上げて、弱弱しく呟いた。
…崇史さん 早く帰って来て…
だが、その小さな呟きは 次第に激しくなっていく雨の音にかき消されて
夜の闇の中に溶け込んでいった……。
また焦らしたまま続く…?(^_^.)
いつも読んでくださってありがとう^^
次回はいよいよ最終話です。
どうぞ最後までお付き合いくださいね。 aoi