『 Sentimental journey (2) 』
「でも、まあ・・・あれだよな・・・」
しばらくの沈黙の後、ジェイが独り言のように口を開いた。
「政治家ってのは、すごいよな。保身と野心のためなら、利用できるものはなんだって利用すんだな。
たとえ、それが、自分の子どもの出生の秘密でも・・・」
そこまで言って、ジェイは、はっと口を閉ざした。
「・・・そうね・・・」
少しの間があって、かれんが、微かなため息と共に返事をした。
またしばらくの沈黙の後、普段饒舌にうるさいくらいに自分を責めたててくるかれんの静かなたたずまいに、
いたたまれなくなったのか、もしくは恐れをなしたのか、ジェイは「ちょっと・・・向かいの書店に行って来る。
親父たちが来たら連絡して。」そう言って席を立った。
「ふぅん・・・あんたでも本なんか読むの」
「読むよ!ってか、授業に必要なもんだっていろいろあんだろ!」
乱暴に言ったわりには、いつものかれんの皮肉にどこかほっとしたジェイは足早に店を後にした。
そそくさと逃げ去るジェイの後姿を見ながら、かれんは手を上げて、ウェイターに合図をすると、アイスティーの
お代わりを頼んだ。
・・・『政治家ってのは凄いよな・・・』・・・
ひとり店内に残されたかれんの耳には、先ほどのジェイの言葉がこだましていた。
程なくして運ばれてきたアイスティーの爽やかな香りを吸い込みながらかれんの心はゆっくりとあの頃へと
巻き戻っていった。
あの・・・混乱と錯綜の日々へ・・・
あれは・・・そう、父に会うために二人して帰省したけれど、結局はタイムオーバーで父の逃げ勝ちに終わった
あの春の後、私たちは、イギリスとアメリカに別れて、それぞれ自立の力をつけるために歩き出した。
ビジネス修行の私と、大学院に通いながら友人たちと起業した君・・・
離れ離れになりながらも、愛を育て、社会人として力を蓄える時期をしっかりと生きる・・・
何も言わないけれど、きっと父はそんな私たちを、見極めていると思ったから。
遠距離恋愛となり、時には寂しさに涙したり、時には思いがけないサプライズに喜んだりしながら、お互い、
忙しい日々を送っていた私たちは、その後、全く思ってもみなかった嵐に巻き込まれ翻弄されることになる・・・・
それは、突然のニュースだった。
「かれん!大変な事が起こったわよ」
「え?」
深夜、母からので電話で起こされた私は、寝ぼけ眼で返事をした。
「リックssiのお父様、イ・ソクヒョンssiが逮捕されたの!」
逮捕!!レウォンのお父様が?!
その瞬間、私は全身に冷水を浴びたように受話器を持ったまま凍りついた。
急いでPCを立ち上げると、韓国のニュースを検索した。
『現職大臣の逮捕!』『汚職にまみれた政治家イ・ソクヒョン!』『巨額の賄賂を受け取り、裏取引か?』
画面から次々と恐ろしげな見出しが私の目に飛び込んできた。
汚職、賄賂、逮捕・・・
これらの言葉が、ただぐるぐると頭の中を駆け巡るだけで、受話器を手に虚ろにPC画面を見つめなす術もなく
立ち尽くすだけの私を、母の声が現実に引き戻してくれた。
「かれん、詳しいことは、今ドンヒョクssiが調べてくれているわ。リックssiから連絡は?」
「・・・・まだ・・・なにも・・・」
「それなら、まず、連絡してみなさい。また、あとで電話するわね。」
「・・・母さん・・・」
「大丈夫よ、かれん、心配しないで・・みんなついてるから・・かれんはただリックssiのことだけ考えていなさい。」
母さんの温かくもぴりっとした言葉に、思わず背筋が伸びてやっと自分を取り戻した。
「うん・・・ありがとう・・・」
また連絡するから・・そう言って電話を切ると同時に、携帯が鳴った。
思わずどきっと立ちすくむ。
君からだ・・・そうわかっているのに、一瞬手が動かない。
・・・かれんはただリックssiのことだけ考えていなさい・・・
先ほどの母さんの言葉が甦ってきて、急いで携帯を手に取る。
「かれん・・・俺だけど・・・」
「うん・・・」
その先を言いよどむ君に「今、母さんから連絡があったわ・・・大丈夫?」と言葉をかけた。
「そうか・・・」
しばらくの沈黙の後、君は言葉を続けた。
「俺は大丈夫だよ。ただ弟が・・・」
「シウォンssi?」
「ああ・・・さっき連絡があったんだけど・・・帰ってきて欲しいと言ってきた」
「シウォンssiが・・・・」
父親が逮捕されたとなると・・・しかも現職の大臣の逮捕となると、メディアの対応も激しく、きっとシウォンssiも
その渦中に飲み込まれているのだろう。
「とりあえず、帰国しようと思っている。弟をこちらに連れてきてもいいし・・・」
「うん、そうだね。レウォンが側にいたほうが、シウォンssiも心強いよ。」
一緒に育ったわけではないが、君たちは本当に仲のよい兄弟だった。
何度か3人で食事をした事があったが、シウォンssiは、心のそこから君を信頼し、慕っていた。まだどこか少年の面影を残した女の子のように整った優しげなシウォンssiの顔を思い出して、私の心に暗い影がさした。
彼が犯罪を犯したわけではない。でも、政治家の息子と言うだけで、シウォンssiもまたスキャンダルの波にさらされるのだろうか・・・あの頃の・・私たちのように・・・
「かれんは、あまり心配しないで。落ち着いたらすぐにアメリカへ戻るから・・」
「うん・・・」
シウォンssiのことは、もちろん心配だろう。でも・・・それは父親のいる世界とはきっぱりと一線を画した君の言葉だった。
やがて、帰国した君の身に、またしても思いがけないスキャンダルの火の粉が降りかかってくるとは、その時はまだ思いもしなかった。
かれんは、ふと回想から醒めると、ゆっくりと店内を見渡した。
まだ、ドンヒョクとジニョンは現れず、ジェイも逃亡先の書店でゆっくりとしているらしい。
全く、ジェイのやつが、書店だなんて・・・時代は変わったわね。
かれんは、ちょっと皮肉めいた笑いを浮かべた。
ま、どうせ、バイクの専門誌だの、スポーツ関連の雑誌だの、立ち読みしてるんだろうけど・・・
かれんは、肩先まで伸びた髪をさらっとかきあげた。
こんなに髪を伸ばしたのは初めてだ。別にレウォンが何かを言ったわけではない。
ただ・・・逢えない時間を愛おしむように髪を切らずにいる自分が、柄にもなくて笑ってしまう。
かれんは、髪を指に軽く巻きつけながら、眩しい陽射しをきらきらと反射させている川を、目を細めて眺めた。
この調子だと、あの二人はまだ現れそうにないわね。
私もちょっと書店でも覗いてみようかしら・・・
・・・書店・・・
その時、一瞬さぁ・・と日が翳り、かれんの顔にも薄い影を落とした。
あの騒動の折には、近づくのも辛くて胸が痛かったけれど・・
もっとも・・・
空の雲が流れ、また陽射しが降り注いできた川に向かって、かれんはゆっくりと深呼吸をした。
そう、もっとも、『あの本』は、ここにはないわ。
君が帰国してからは、事態が慌しく進行していった。
続く秘書の逮捕、イ・ソクヒョンssiの否認による検察との全面対決
ソクヒョンssiは、全て秘書の采配で、自分は一切知らされていなかったと反論した。
全面否認のまま、拘留期間を終えて、多額の保釈金と引き換えに釈放されたイ・ソクヒョンssiは全ての職を辞して謹慎生活に入った。
そこで始まったのは、やがて始まるであろう長い裁判に向けての、ソクヒョンssiの反撃とも言える活動だった。
彼は一冊の本を上梓した。
それは、この汚職疑惑における彼の抗弁とある意味彼の自伝ともいえる内容だった。
そこでは、この疑惑自体が検察の罠で、検察内部の腐敗と裏金を知る自分が狙われたのだという衝撃的な告発だった。
しかし、マスコミの耳目を集めたのは、貧しい生い立ちから政界のトップクラスに上り詰めた彼の半生だった。
なかでも、最も人々の興味を引いたのが、亡くなった夫人との『純愛』だったのだ。
それは、こんなストーリーだった。
貧しい苦学生が財閥のお嬢様に恋をした。ずっと影ながら慕ってきたけれど実るわけのない愛だった。しかし、
お嬢様やその父親に認めてもらうためにも、一流の政治家を目指す。自分のような貧しく虐げられたものたちが幸せになれる社会を作ろうと・・・
なんとか、政治家になり上を目指し必死に努力している最中に、お嬢様は留学先のアメリカで韓国系の米国人と恋に落ちる。しかし、それは身分違いの恋だった。
それを知った自分は、血を流すように苦しんだ。自分だってお嬢様につりあう男になりたいとこんなに努力をしているのに・・・
しかし、お嬢様の幸せのためなら・・と身を引き、なんとかお嬢様の恋が成就するように力を貸す。ところが、その恋が父親に知れ、二人は引き裂かれてしまう。その上、相手の男は、不慮の事故で命を落としてしまう。その時、お嬢様の体には新しい命が宿っていた。
嘆き悲しむお嬢様を慰め、今度こそ自分が幸せにすると誓う。
そして、お腹の子どもごと、自分が引き受け愛し育ていくと・・・
そんな自分の「無償の愛」にお嬢様も応えてくれ、やっとお嬢様の父親にも認めてもらい、結婚することができた。
自分は世界を手中に収めたかのような気持ちになった。
しかし、幸せは長くは続かない。
心のそこから愛しぬいた妻は、ある雨の夜、車の事故で命を落としてしまう。
それは、選挙期間中に、自分のために選挙区を回ってくれていたときの惨事だった。
そして、このストーリーはこう結ばれている。
悲しみのどん底に突き落とされた自分を救ってくれたのは、二人の息子たちだ。
長男は、今では全てを知っているが、私たちは強い親子の絆で結ばれている。
そして、息子たちはとても仲のよい兄弟だ。今度のことも大変心配して私の側についてくれている。
夫人の残してくれたこの子たちのためにも、自分はここで終わるわけにはいかない。
再び、政治家として立ち上がり、自分のような貧しい生い立ちの者が幸せになれる社会を作らねば・・・
それが、生涯をかけて愛しぬいた夫人への最高の供養となるのだから・・と・・
あの成り上がりで野心家の政治家「イ・ソクヒョン」の純愛物語に誰もが驚き同情を寄せた。
「金と地盤のための政略結婚だと思っていたが・・・」
「そういえば、何故コ・ギチョルが娘とソクヒョンとの結婚を許したのか不思議だった。
財閥のご令嬢ならもっといくらでもよい縁談があったからねぇ・・・」
「いくら愛しているとはいえ、よその男の子どもを自分の子として育てるなんてなかなかできることじゃない。」
世間は、あっという間に、ソクヒョンssiの側に回った。
かれんは、もう一度、空を見上げた。薄い雲が緩やかな風に流されて大空をたゆたっている。
あのストーリーが嘘か真実か、私にはわからない。
あの結婚が、たとえ、ギチョルssiが提案したお互いの利害のためだけのものだったとしても・・・十数年に及ぶ結婚生活が何かをもたらしたのか・・または、もたらさなかったのか・・毎日、共に暮らし、夫婦として時を重ねていくという事がどんなことなのか・・・まだ私には分からない。
ただ、わかることは・・・君の弟のシウォンssiは、まっすぐに育ったとても優しい好青年だということだ。
そして・・・ソクヒョンssiは、再婚をしていない。
ギチョルssiの手前もあるだろうが、政治家なら夫人がいたほうがなにかと有利だ。
それは、彼の言うように「愛」だったのか・・・なかったのか・・・
愛・・・だったのなら・・・
君の緑色の瞳は、彼にとって辛い色に映ったのかもしれない・・
いつまでも叶わなかった「愛」だけを想い、その幻影を忘れ形見の緑色の瞳に捜し続ける妻・・・その姿を見つめ続ける彼にとって、それは辛い愛の選択だったのかもしれない。
・・・ふぅ・・・・
かれんの唇から淡いため息が漏れた。
愛って、つくづく厄介なものね・・・
でも、あの本を出版したとき、ソクヒョンssiの心の中には、君に対する思いは少しでもあったのだろうか・・
あの一種の暴露本とも言える本によって、全くの私人である君のプライバシーは、マスコミの格好の餌食となった。
『運命の子ども』『悲劇のプリンス』
コ財閥の御曹司でもある君は、勝手な憶測のもと、メディアの脅威に晒されることになった。
事が君に及びだしたと知って、私も平静ではいられなくなった。
事件が発覚してから、二ヶ月あまり・・・君は大丈夫だと落ち着いた声で繰り返していたけれど・・・あの怖さはよく知っている。「マスコミ」という名に隠れた興味本位の報道、取材という名の暴力、不特定多数の人たちの探るような視線・・・
それに、シウォンssiは・・・
今、私にできることは・・・でも・・
そんな時に、父から連絡があった。
父はいつも「ベストタイミング」というものを知っている。
「かれん、ギチョル会長も手を打っている。僕も協力して、できるだけの策を講じている。
もし、帰国するならすぐに手配するよ。」
帰ってもいいの・・・?
修行中の身で、仕事も何もかもいきなり放り出して・・・帰っていいの?
父の思いがけない言葉に、ただ「・・・父さん・・・」とだけしか言えなかった私の胸中を全て察してくれた父は、
その後てきぱきと準備を進めてくれた。
すぐに、ジニssiからも連絡があり、私は翌日一番の便で韓国への帰国の途につくことができた。
空港で私は父からの一通のメールを受け取った。
『それとこれとは別だから・・・父』
くすっ・・・こんな事態の最中だというのに、思わず笑ってしまった。
全く・・・でも、君と父さん・・・よく似ていると思うのだけど・・・
そして、「愛」のために・・・仕事も何もかも放り出して愛する人のものへ駆けつける私もまた、父さんにそっくりだといえるのかもしれない。
君に黙って帰国した私を、君は一瞬驚いた顔をした後、痛いくらいに抱きしめていつまでも離さなかったね・・・
ただ「かれん・・」とだけ何度も呟いて・・・
その後のあの混乱の日々をどうやって切り抜けたのか、今となってはよく覚えていない。
ただ、私たちはずっと一緒だった。私は、ただ黙って君の側にいた。
やがて、マスコミは新たな標的を見つけ、人々の興味もそちらへ移っていった。
イ・ソクヒョンssiが会見を開き公判を戦い抜き、政治家として再起することを誓った。
また、コ・ギチョル会長も一連の騒動に対するコメントを発表し、自身の後継者として君を指名した。
こうして、事態はようやく収束の兆しを見せていった。
君は、静かにすべてを受け入れた。
そっと私の手を握りながら・・・
君がただ一点、気にしたことは弟さん・・シウォンssiのことだけだった。
また、そんな私たちを、父も静かに見つめているようだった。
私もあえて、君に真意を問いただすことはしなかった。
私もまた、静かに愛する人の選択を受け入れた。
ずっと昔、父さんが母さんにそうしたように・・・
そういえば・・・あのころ・・・君と車で夕暮れの街を走っていたことがあったね。
君はまっすぐ前を向いたまま、私に問いかけた。
たった一言「かれん・・いい?」と・・・
私はすぐに「いいよ。」と返事をした。
何が?と確かめることもせずに・・・
あの時・・・いつだったか、父さんが言った言葉が甦ってきていた。
・・・人生とは、なにが起こったのではなく、何を選択したかが重要なんだよ・・
あのとき、私は、確かに、一つの選択をしたのだろう。
君は、少し潤んだ瞳で私を見ると、「ありがとう」と言った・・・
そして、私たちは、新たな一歩を歩き出した。
繋いだ手を離さずに・・・
あの騒動がもたらしたものはなんだったのか・・・
まるで嵐が過ぎ去った砂浜に、多くの漂流物と一緒に取り残されたみたいだった。
ただ・・・君が、もうその緑色の瞳を隠さずに生きていけるのも事実。
そして、シウォンssiが「僕にとって兄さんは兄さんだよ。なにも変わらない。」そう言って、君を抱きしめたのも、
また、きらりと光った真実だった。
きっと・・・幸せというものは、不幸の回避ではないのだろう。乗り越えるプロセスも、その先にあるものを掴み取るのも、また幸せといえるのだろう。
「かれんーーー、遅くなってごめんねーーーー」
その時、店内に賑やかなジニョンの声が響いた。
(2010/2/14
MilkyWay@Yahoo UP Sentimental journey 3・4・5・6・7 )