『 Sentimental journey (3) 』
「待たせちゃって、ごめんねーーー」
きらきらと光を弾きながら、弾むような足取りで近づいてくるジニョンを見て、かれんはくすっと苦笑を洩らした。
全く、母さんって、得な人ね。そんな笑顔で来られたら、怒る気になれないわ。
「お待たせーーもう、ドンヒョクssiと一緒だと、つい時間を忘れちゃってーー」」
そう言って、隣の席に腰を下ろしたジニョンを、かれんはいぶかしげに見た。
「あら?父さんは?一緒じゃないの?」
「うふっ」
ジニョンは、軽く手をあげて店員を呼びながら、悪戯っぽい笑顔でかれんを見た。
「ジェイと一緒よ。」
「ジェイと?」
「そう、せっかくだから、男同士でドライブに行かせたの。」
「へぇ・・・」
父さんとジェイが、二人っきりでドライブねぇ・・・・あっ、それって、あの「逃避行」以来じゃない?!
嫌なことを思い出したわ、とつぶやきながら、かれんは、朗らかに珈琲を注文するジニョンに、
「母さん、ここのチーズケーキは美味しいらしいわよ。」と助言した。
「うーーん、今は止めておくわ」
そんなジニョンの横顔をかれんは少し不思議な気持ちで眺めていた。
へぇ・・いつもなら、2個くらい注文しそうなものなのに・・・
「さっき、この店の前でジェイに会ったのよ。そこで、二人をメモリアルドライブに送り出したの。」
「メモリアルドライブ?」
「そう、甘酸っぱい記憶を辿るドライブよ。だって、ドンヒョクssiもこの街で大学生活を送ったんでしょう?きっとそこここにいろんな想い出があるはずよ。青春時代を過ごした街だもの・・・青春の煌きやときめき、挫折や苦悩・・・
若さゆえの過ち・・・なぁーんてね。で、ジェイとだったら、同じ男同士、そんな気持ちを共有できるんじゃないかって思ってね。」
「へぇ・・・」
果たして、ジェイにそんな感性が宿っているんだか、どうだか・・・
かれんは、心の中で、つぶやいた。
「でね」
ジニョンが、きらりと光る瞳でかれんを見つめた。
「な、なに?」
こんな表情の母さんには、要注意・・・
「ドンヒョクssiと出かけたときに、見つけちゃったの」
「見つけたって、何を?」
かれんは恐る恐る問いかけた。
「スイーツバイキングーーーー」
「はぁ??」
ジニョンは、がばっとかれんの手を握った。
「それがね、とーーーっても可愛らしいお店なのよーーー。もう甘酸っぱい女の子の憧れって感じでーー。で、そこで、スイーツバイキングをやっていてね、70分の時間制限があるんだけど、ちらっと店内を覗いたら、美味しそうなスイーツが満載でねーーー、あと30分でオープンするんだけど、かれんと行こう♪って思ってねーー♪」
はぁ・・・かれんは、今度は大きなため息をついた。
父さんと、ジェイを二人でメモリアルドライブだかなんだかに送り出した本当の理由はこれね。
父さんと一緒だと、思いっきりスイーツバイキングを満喫できないってわけね。
70分の時間制限ありだし・・・
「わかったわよ。付き合うわ。」
今日は、それだけでお腹一杯になりそうね・・・そして、当分甘いものは見るもの嫌になりそう・・・・
すでに、胸が一杯になりながら、かれんはしぶしぶ頷いた。
そんなかれんの屈託などお構いなしに、ジニョンは、晴れ渡った空を見上げると、大きく手を伸ばして背伸びをした。
「あーーー気持ちいいわねーーーー」
あーーあ、全く、母さんには、かなわないわ・・・・
少女のように、無邪気な笑顔で青空を見上げるジニョンを見て、かれんは、また苦笑を洩らした。
「ね、かれん、こんな日は、『神様の宿題』なんか、簡単にはかどりそうね」
「神様の宿題?」
急に、またなにを言い出すのやら・・・・かれんは、少し呆れ顔でジニョンを見た。
「ほら、昔ジェイが好きだった絵本があったじゃないーー。確か、『神様の宿題』とかいうタイトルじゃなかったかしら?」
「あーあー・・・あったわね・・」
そういえば、そんな絵本があったわね・・・
かれんは、懐かしく思い出した。
幼かったジェイが、よく「読んでー読んでー」とせがんでいたっけ・・・
「いっつも気持ち悪い昆虫図鑑やら恐竜の本やらしか読まなかったジェイの唯一の愛読書だったわね」
かれんの言葉に、ジニョンも懐かしそうに目を細めた。
「あの絵本に書いてあったこと、何故か、今でも時折思い出すのよ・・・」
「へぇ・・・」
かれんも、しばし、当時に思いを馳せた。
「ジェイのやつ・・・まぁ、あの頃も、たいして賢くはなかったけど、まだ、可愛げってものがあったわね・・・」
「かれんったら・・・」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「確か・・・こんな内容だったわよね・・・」
かれんは、ゆっくりと語りだした。
「人は、この世に生まれ出るときに、神様から宿題を出される。この世でしっかりと勉強して、その宿題を解いて、天国に帰ってきなさいと・・・
みんなに、共通した宿題もあれば、その人、その人に出される問題もある。与えられた人生で、それぞれ努力し、励みなさい・・・やがて天に召されるときに、その答えを神様にしっかりと告げて天国に戻れるように・・・」
そこで、ジニョンが、くすっと笑った。
「あれには、参ったわねーー、ほら、その共通の宿題っていうのに『美しいものを見て、妙なる調べに耳を澄ませ、楽しい時間をたくさん過ごしなさい。』て、あったでしょう?それで、学校から帰ってきたジェイに『宿題はすませたの?』って聞いたら、『うん、やったよ』って言うから安心してたら、なんのことはない、神様の宿題のほうだったのよ。『だって、僕、楽しい時間をいっぱいいっぱい過ごしたよーー』って、にこにこ笑って言うもんだから、ほとほと困ったわ」
「あの馬鹿には、あの絵本の真髄は伝わらないわね。きっと今読んでも同じこと言うわよ」
「まぁ、かれんったら」
ジニョンは、またもくすっと笑った。
「でも・・・あの『宿題』っていう訳は、ちょっと違ったかもね・・むしろ『課題』って訳したほうがよかったわね・・・
まぁ、でも、子供向けの絵本だから『宿題』としたほうが、伝わりやすかったんでしょうけど・・・」
そう考え込むかれんを見て、ジニョンは苦笑を洩らした。
「かれんにとっては、絵本も立派な研究材料なのね」
そんなジニョンには、お構いなしにかれんは持論を展開し始めた。
「だって、あの本の真意はむしろ後半にあるのよ。人が生きていく中で困難にぶつかったり、夢をあきらめそうになったりしたときに、これは神様からの宿題だから、投げ出してはいけない、しっかりやりとげなさい、・・というテーマがこめられているのよ。今、大人が読んでもなかなか意味のある一冊だと思うわ。むしろ日々の生活に追われ、時間を粗末に使いがちな大人こそ読んで、今一度生きる意味とか・・・」
「あっ!かれん、そろそろお店が開く時間よ!」
かれんの真剣な提案などお構いなしに、今度はジニョンが急いで席を立った。
・・・・全く、母さんときたら・・・・
かれんは、少し呆れた面持ちで、ジニョンに続いた。
賑やかな大通りを、ウインドーショッピングしながら、楽しく歩く二人の頭上で太陽がきらきらと陽気な光を投げてよこした。
かれは、真っ青に晴れ渡った空を見上げて、眩しげに目を細めた。
なるほど・・・母さんの言うとおり、こんな日は『神様の宿題』がはかどりそうね・・・
そう思いながら、かれんは、ふと横を歩くジニョンを見た。
ほら、あれ、素敵ねーーー
あ、あのワンピース、かれんに似合いそうじゃない?
あ、あっちもいいわねーーー
あちこちを指差し、楽しげにおしゃべりしながら歩く母・・・・
でも・・・
何故、母さんは、今でもふとあの絵本を思い出すのかしら・・・
かれんはもう一度あの絵本の意味を思い返してみた。
『神様の宿題』・・・・与えられた自分なりの課題・・・夢の実現・・・
やりたいこと、生きがい、ライフワーク・・・・『夢』という言葉はいつもきらきらと、希望に彩られてはいるけれど・・・・
時に、人は、その『夢』という存在そのものに、悩み、傷つくことがあるのかもしれない・・・
叶わなかった夢・・・捨てきれない夢・・・中途半端に投げ出してしまった夢の欠片をあきらめきれずに、いつまでもしがみついたり、最初から夢なんか見なかったらよかったと後悔してみたり・・・
そんなものが、自分を、そして、周りの人を悲しませることがあるのかもしれない・・・
もしかして、母さんも、そんな想いに、悩み傷ついたことがあったのだろうか・・・
ホテルでは責任のある仕事を任され、ベテランのホテリアーとして常に忙しく働き続けてきた母・・・
でも、ホテリアーとしての自分の夢と、愛の狭間で母もまた涙したことがあったのかもしれない・・・
そして、また、働く女性として、妻として母として、時に悩んだり、苦しんだりすることも多かっただろう。
特に、今、ここにいないあのジェイに関しては・・・
そんなときに、母はあの絵本を思い出したのだろうか・・・
・・・これは、神様からの宿題だから、逃げずにしっかりと向き合わなくちゃ・・・
そう、自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばす母の姿が目に浮かぶようだった。
かれんは、傍らのジニョンを見た。
にこにこと笑いながら、お目当ての店のドアを開け、甘い香りに目を細める母・・・
いつのまにか、背丈も変わらなくなり、同じ高さで目線を交わしてはいるけれど・・・
それでも、そんな日々の積み重ねが今日という日をもたらし、この笑顔に至ったのだという真実に、かれんは深く静かに思い至った。
やっぱり、母さんは、私の目標よ・・・・
「あーーー美味しいーーーこのチーズケーキは絶品よーー」
お皿にいくつものケーキを乗せ、あれこれと食べ比べるジニョンの前で、かれんはブラック珈琲を口にした。
あと少しで制限時間の70分・・・・
とうにギブアップした自分の目の前で、まだ旺盛なスイーツ欲を見せる母・・・
微かな胸焼けを覚えながら、ふとかれんは先ほどから気になっていた一枚の絵に視線を止めた。
あれこれとケーキを選びながら、なんとなく気になり、ちらちらと見ていたその絵を、少し席をずらして、しっかりと見てみた。
それは小さな一枚の風景画だった。
店内の少し窪まった壁に、さりげなく飾られたその絵は、淡い新緑を描いたもののようだった。
そんなかれんの視線の先を辿って、ジニョンは「あら・・かれんは、グリーンのものは、なんでも気になるのね・・・」とからかった。
「もう、母さんったら・・・」
当たらずといえども遠からずの心境を言い当てられて、かれんの頬が微かに桜色を帯びた。
「綺麗な絵ね・・・」ジニョンも、ケーキをほおばりながら、感想を洩らした。
「そうね・・・」
そういえば・・・少しはにかんだ時の君の瞳の色に似ている・・・
やがて、どちらかともなく話題がレウォンとかれんの今後に移っていった。
「やっぱり、リックssiは、お祖父様の後を継ぐの?」
「うーーん・・多分いずれはそうなるんだろうけど・・・今はまだ自分の力でやっていきたいと思っているみたいよ。」
「そうなの・・・」
「後継者といっても・・・一番下から始めるんじゃないかしら・・また、お祖父様といろいろあるかもしれないけど・・・一悶着は避けられないかもね・・・」
「そう・・・でも、リックssiがそう考えるのも分かるわ。それに、かれんが側についていれば、きっと大丈夫よ。」
「うん、ありがとう・・・」
淡い新緑の絵を見ながら、二人で話していると、大量に積み上げられたケーキ皿を回収にやってきたスタッフが気軽に声をかけてきた。
「あの絵、素敵でしょう」
「ええ、本当ね。この季節にぴったりね。」
ジニョンが、にこやかに返事をした。
「実はあの絵には不思議な伝説があるんですよ。」
「伝説??」
思わず声を揃えて聞き返した二人を見て、男性スタッフが陽気な笑い声を上げた。
「別に怖い話じゃないですよー」
実はね・・・と、テーブルに軽くもたれかかりながら、スタッフが語りだした。
「あの絵・・・いつからここにあるのか、誰が描いたのかわからないんですけど・・・というのも、ここの店は、何度もオーナーが代わり、商売も代わったんですよ。うちの前は、イタリヤ料理店、その前はチャイニーズ料理店、その前はショットバー・・いや、プールバーだったかな・・・そんな風に次々と変わったんですけど、ずっとあの絵だけは、あそこに飾られてるんらしいんですよ。うちのオーナーの話だと、あの絵の作者は生涯でただ一枚あの絵しか描かなかったとか・・・」
・・・生涯でただ一枚の絵・・・
「でね・・・ほら、ようく見てください。」
そういって指差した先をジニョンもかれんも目を凝らしてみた。
「あの新緑の中に、白いドレスを着た女性が描かれているのがわかりますか?」
あっ・・・
淡い淡いグリーンを重ねた奥に、薄っすらと人影が見えた。
少し首をそらし、上を見上げたその顔は、葉々の影になってよくは見えないが、確かに一人の女性の姿が描かれていた。
「あの女性についても、いろんな説があってね。やれ作者の自画像だとか、愛する人を描いたものだとか・・・
夜中に絵を抜け出て店内を歩くとか・・・っていうのは、嘘ですけど、お客さんの中には、絵画に詳しい人もいて、
きっと有名な画家が画学生のころにアルバイトで書いた絵じゃないかとか言って、鑑定を勧められたりもしたん
ですけど・・・・もしそうなら何億の価値だとか言って・・・」
「え?それで?」
思わずジニョンが、身を乗り出して聞いた。
「いやーなんてことはないただの絵だったようですけど」
ははは・・・と陽気に笑ってスタッフは続けた。
「うちのオーナーなんてロマンティックなタイプだから、『死を予感した貧しい作者が生涯にただ一枚愛する人を描いた絵だ。』なんて言ってね・・・で、愛する人がこの絵を見つけてくれるのをずっと待っている、だからどんなに店が変わろうと、この絵はずっとここに飾られてるんだろうなあーーなんて言ってますけど・・・」
そこで、スタッフはふん・・・と鼻を鳴らした。
「俺に言わせれば、みんな、単にはずすのが面倒だっただけですよ。別に邪魔にならないし、カフェでもイタリア料理店でも、合う絵ですしね。」
・・・確かに・・・
かれんは、冷静に絵を分析した。
「ま、一種の都市伝説ってやつですかねーーあ、でももし俺がこの絵にタイトルをつけるとしたら、『夢やぶれて』って感じかな。」
「夢やぶれて?」
ジニョンが、不思議そうに聞き返した。
「ほら、なんとかってミュージカルの中で歌われていた歌なんですけど・・この絵を見てると、そんなタイトルが浮かんでくるんですよ。ま、多分、画家を夢見たやつが、結局食えなくて絵筆を折ったってストーリーが正解じゃないかな。生涯にただ一枚って言われてるけど、この絵しか売れなかったってことですよ。この作者が男なら、女房かなんかに、あんた!いつまで夢を追いかけてるのさ、いいかげんに生活費を稼いできてよ!とかなんとか言われてね。女なら、金持ちの恋人でも捕まえて、絵なんか捨ててあっさり結婚しちゃったとかねーまぁ、現実はそんなもんでしょ」
それじゃ、ごゆっくり・・・と言い残してスタッフはケーキ皿と共に去っていった。
「まぁ・・・そうかもしれないけど・・・母さんとしてはオーナー説をとりたいわねー」なんて、少しうっとりと絵を見上げる母を横目で見ながらかれんは苦笑した。
母さんならそう言うでしょうね・・・
でも・・・
かれんは、また淡い新緑を描いた絵に目を戻した。
『夢破れて』か・・・
この作者も、また夢に翻弄された一人だったのだろうか・・・
画家になるという夢を捨て切れず、かといって叶えられず・・・
やがて、失意と共に絵筆を折ったのだろうか・・
現実は確かにあのスタッフの言ったとおりかもしれないけど・・・
でも・・・
たとえ、画家になるという『夢』が破れても、家族という新たな『夢』に向かって生きて行けばいい・
なぜなら、きっと『神様の宿題』の意味は、何かを実現することではなく、そこから何を学んだのかにあると思うからだ。
あえていえば、学ぶべきことがあるからこそ、神様はその人にそんな宿題を出すのだ。
そう考えれば・・・
あの・・・事件は・・・
かれんの心に小さな暗雲が広がった。
私たち家族は・・・あの事件から何を学んだのだろうか・・・
神様は、何を学ばせたかったのだろうか・・・
かれんは、満足げに仕上げのカフェラテを口にするジニョンをちらりと見た。
母さんは・・・あの事件の間、ずっとあの絵本のことを思い過ごしたのだろうか・・・
これは、きっと『神様の宿題』だから・・・と自分に言い聞かせて・・・
あれは・・・
かれんの記憶がゆっくりとあの夏に巻き戻っていった・・・
あの暑い暑い夏に・・・
それは、レオからの一本の電話で始まった。
あの当時、ドンヒョクがアメリカの有名なチェンーンホテルの買収に忙しい日々を送っていたころだ。
そんな長い出張の最中に、レオからの緊迫した電話がかかってきた。
「ジニョンssi・・・ちょっと・・・厄介な事が起こってしまって・・」
「えっ?ドンヒョクssiになにか?体調でも悪いんですか?」
「いや・・・ボスは元気だ・・・実は・・・」
いつになく、歯切れの悪いレオの言葉にジニョンの不安が大きくなっていった。
「実は・・・ボスと・・ある女優の写真が・・・明日の週刊誌に掲載されることが分かった」
(2010/4/27 MilkyWay@Yahoo UP Sentimental
journey 8・9・10・11)