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韓韓ドラドラ孫孫孫
韓韓ドラドラ孫孫孫(https://club.brokore.com/kandorakandora)
(・3・)サークル10周年熟成の味
サークルオーナー: ENZO | サークルタイプ: 承認制 | メンバー数: 2535 | 開設:2005.03.05 | ランキング:6(51312)| 訪問者:1512264/4232275
開設サークル数: 1238
[お知らせ] 更新のお知らせ
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お外で遊ぼ【公開掲示板】
万が一、締め出されたり露頭に迷ったときはココから。この部屋はサークル登録者以外の 通りすがりの誰でもが見られる仕様にしてあります
No 11 HIT数 4542
日付 2011/12/10 ハンドルネーム (・ε・)昆布
タイトル IMX 20周年孫社長記念スピーチ(ほぼ)全文
本文

2011年11月24日に開催された
10周年記念赤字祭りで
孫君のスピーチ部分をお届けします。

原稿資料をもらったわけでも
録音をとっていたわけでもなく
耳と頭で覚えたモノなので
もし聞き間違い、記憶間違いがあれば
お知らせくだされば幸いデス

会場は444人キャパの平土間の体育館みたいな会場で、
椅子がシアター形式で100個ほど、壁にそって20席ほど追加され
後方には立食用の背の高い丸テーブルが数台あり、そこにも
何人かが立っています。
舞台は高め(たぶん80センチ)にしてあり、全員椅子に座っても後方からも
十分舞台の上が全部見えるつくりでした。

風邪をひき、薬を四種類飲んで熱を下げてイベントに参加したという孫君、
よたよたと舞台にあがってきて、、、
「まぶしいから照明落として」
「マイクも(音が)大きい、、、」
舞台上にぽつんとおかれたパイプ椅子を
「まんなかにこんなふうに一人でいるのも、、、」と、舞台下手の
司会者コッキー君が使っている演台を所望
会場からはじっこでなく真ん中へきてほしいと声がとび
コッキー君と二人でよたよた演台を真ん中に運び苦笑い。

(以下、全部孫君の発言なので カッコなどを省略します 
またこの全文は11月24日より 有料ブロコリ会員が加入できるサークル「韓韓ドラドラ孫孫孫」の「孫君を狙え」部屋に公表していたものですが、オフレコだった俳優イ・ジュンギさんとの契約が公表されましたので一部を削除、加筆して、公開します。月200円でブロコリ有料会員になっていただけると、孫社長をいじる複数の部屋などをご覧いただき、企画にもご参加いただけます。大人の遊びができる方ならどなたでも歓迎です。お待ちしています)



10周年を皆さんと一緒にお祝いしよう、という話しをしたあと、僕は出張で、ほとんど準備に携われませんでしたが、担当社員から「ナニかやりますよね?」と聞かれ、ああ、やるよ、と答えたら「じゃ30分」と言われました。
本当は10年もやってきたので、三時間でもしゃべれると思うのですが、、
風邪で声もでないので、、
10分から15分を目標に。
(懐から原稿メモを出すが、焦点があわず腕をのばし遠ざける。それでも見えず、老眼鏡を出す)

なんで会社をつくったか、なんですけど、、、
ブロコリマガジンのエッセーのなかで何回か、書いたことがありますが、、、
会社を作って社長になろうとか、金持ちになろうとか、有名になろうとか思ったことはないんです。
日本にきたのも、日本語を勉強していたわけではなく、日本でなにかやってやろうということでもないですし。大学の専攻は仏文でしたし、第二外国語は高校大学ともドイツ語で、英語はみなさんと同じようにやりましたけど、日本語は全くやっていませんでした。
大学の3年にあがって、軍にいき、(あ、眠ってていいですよ、と会場に言う)復学するまでに時間があいて、当時は今と違ってバイトして生活のできる近い国、というのが日本でした。
ほかの留学生と違い、目標がなかったので、毎日バイトしていました。日本語学校には全部で10か月くらい通いましたが、2.3か月目くらいから和風中華というか、いわゆるラーメン屋さんで夕方から朝2時までバイトをはじめました。
韓国でそんなに熱心にバイトしたことはなかったので、初めての経験でした。日本語はあいうえおからスタートしたのでその時点ではほとんどしゃべれませんでしたが、メニューさえ覚えればなんとかなりました。夜中は店に70代の厨房のおじいさんと僕だけ、ほかのこともできず、6か月で韓国に変えるつもりでした。(途中で帰る人に、お気をつけて、と見送ったあと、途中で帰るときは挨拶しないでそっと帰ってください、どこまで話したかわかんなくなっちゃうんで、、、)
日本語も中途半端におぼえて、日本について何もしらないままで、夜中に食事にくる工事現場の人に怒られたり、出前の配達にいってクラブのお姉さんに怒られたり、これで韓国へ帰るのは、どうか、と思いました。
もともと仏文にいたのはフランスで映画の勉強ができればいいな、と思っていたので 日本で大学に入りなおそうか、と思いましたが、映画専攻のある大学はほとんどありませんでした。今でも日大とムサビ、大阪芸大くらいでしょうか。早稲田には演劇があり、親からは「韓国でみんながわかる(知っている)大学ならいい」といわれましたが、韓国でみんなが知っているのは東大、慶応、早稲田しかないんです。それで早稲田に入りました。日本語は中級までしか勉強していないので、敬語とタメグチが自在に使い分けられるレベルではなく、みんなが「俺さ~」と話してるときに、僕だけ「おはようございます、僕は孫と申します」というような話方でした。
コーヒー一杯おごった縁で友達はできましたが、文学部は金にならないのでほとんどそれまで留学生がおらず、演劇は僕だけでした。「なんで孫はみょうじが孫なの?」とか「韓国て何語使うの?」とか一人ふたりじゃなく何人にも聞かれました。早稲田ってバカしかいないのかとも思いましたが、あれが日本の平均だったと思います。日本の若い学生は韓国が何語か知らない、朝から晩までキムチと焼き肉を毎食食べてると思ってる、、、、。
20代の人は興味がない。先入観もない。 幼稚な差別程度しかない。
上の世代は先入観と差別を持っている、という印象でした。とにかく若い人は興味がない。
 小学校、中学校のころ僕たちは日本に興味がありました。僕なんかむしろなかったほうで、松田聖子とか、、文化開放政策以前に、取り締まる人がいるわけじゃないので、僕の周囲は日本文化を楽しんでいる人が多かった。でも日本側には(韓国文化といえば)チョーヨンピルくらいしかなくて、なんで釜山港に帰るんだかわかりませんが、、、。

朝鮮日報と第一企画、二つの会社の最終面接で落ちて韓国へ帰れず、横浜のオフサイドに就職し、中華街に住んでいました。電話をKDDIにかえろ、という勧誘の中国語の電話を、中国語で僕は中国人じゃありませんと言ってことわったしりていました。
オフサイドの伊藤さんにしかられながら、2年間ほとんど休みもなく、しかし、たとえばIMXだったら5年かかるような仕事を2年で覚えさせてもらいました。
もう日本にきて6年たっていたので、ちょうど親が「NHKのソウル支局が記者を募集してるよ」と教えてくれたので、履歴書をだして筆記、面接と受けて入社しました。
NHKに入ったら、ハイアットホテルで毎朝朝食ミーティングだし、模範タクシーで出社できるし、経費は使い放題だし、お給料もかなりよかったです。でも やりたいことは一切できませんでした。入った瞬間からこれは違うと思っていましたが、でもやめてどうする、と思いながら半年すごしました。文化紹介の番組を作りたかったのですが、支局長は南北問題には興味があっても文化には興味がなく、僕に任せられるのは誰でもできるような仕事ばかりで、、、ちょうどブロードバンドが発達した時期だったので、日本にまた来ました。

弟が韓国では伝説のグループといわれてるソテジ(ワアイドル)の日本マネージャーだったので、そこに間借りして、リビングでIMXをスタートさせました。当時は株式会社をつくるのに1000万円必要で、株式会社でないと放送局などは相手にしてくれないだろうと思ったので困っていると、休眠会社を買えばいい、と教えてもらい、ラーメン屋さんの「ハーバームーン」という会社を60万円で買い取り、事業目的を変えたりしました、そいういう意味ではIMXのスタートは15年前になるかもしれません。

韓国の番組は輸入する人が日本側にいなかったので、韓国側は売ったことがないわけで、誰が見るんだ、と信じてもらえませんでした。契約書のフォームもありませんでした。
NTT,KDDI以外は動画配信ができなかったので、韓国のドラマをどこかでやりませんか、ともちかけても、KDDIの人には、PCで動画を見るのは難しく、10分以内のものでないとダメだと言われました。いえ、60分でも70分でも見ますよ、と言ったがダメでした。結局日本テレコムとNTTが受けてくれたのが「イブのすべて」でした。
イブのすべては字幕も自分で作って、イマジカという会社にいってスタジオを借り、お金を払ってオペレーターを頼んで、1話90万円くらいかけて作りました。配信したあとはすごく反応がよく、日本テレコムもびくりしていました。
しかし、テレ朝が深夜枠で「イブのすべて」を放送することになり、日本で最初の地上波放送だから理解してほしいと言われ、イブのすべての動画配信は途中までしかできませんでした。
秋の童話が、そういうわけではじめて最後まで配信できたドラマになりました。
(ここまでで25分、と確認。あと5分くらい、と言って、会場にここにいらしてるのはみなさんペヨンジュンのファンですか?手をあげさせるとヨン様ファンじゃないのはわずか6.7人)
ペヨンジュンとのエピソードは多いが、よかったねばかりじゃなく、嘘~あり得ない~ということが多い。でもそれをこういう場所で話すのはよくないと思う。ペヨンジュンとの契約が終わったあと、大手出版社3社からオファーがあったのに、断った。今ここで話すなら、あのとき本にして(儲けて)いればよかった。

公式サイトをやっているとき、自殺騒動があったり、病気の人が多く、掲示板に書くひともいましたが、手紙や電話もとても多かった。ペヨンジュンのファンは用件がとくになくても、泣いて30分くらい話すんですよね、、、。
ひと目会いたい、病院に来てほしいという人が本当に多かった。病院作っちゃったほうがいい、ていう話をしたこともある。老人ホーム作ろうか、っていう話しもありました。実際は(頼まれても全部の病院へは)行けないので、申し訳ない、と断っていました。
一回だけ、実は、病院まで行ったことがあります。
それは弟さんが会社に訪ねてみえ、姉は肺癌で数か月の命です、ひと目合わせてあげたい、と、、、遠くにお住まいだったが、弟さんは何度もみえました。
本当はよくないことかもしれません。○○さんが亡くなったという(掲示板の書き込みは頻繁にあり)葬式だけでも日本全国まわらなきゃいけないくらいでしたから。でも弟さんがそれだけ、姉さんを合わせたい一心で何度も来られたので、(ヨンジュンに)時間があったら一緒にいかないか、と言ったら いいよ、といってくれ、日本にきたとき、夜、すごい雨のなか、僕が運転して新潟まで行きました。新潟についたときは病院も閉まっているような遅い時間でしたが合わせることができました。
二か月後、弟さんから、姉は幸せに天国へ旅立ったとお礼をもらいました。
やっていいことだったか、正直今もわかりません。
もっと大変なヒトもいたと思うし、平等にやってくれ、と掲示板で言われるのがつらかった。平等に、誰とも合わず、手だけ振ってればいいのか、というとそれは違うと思う。しかし、全国お見舞いツアーをやじきた道中みたいにするのも違う。
ゼアだと、ファンが元気すぎて困るけれど、ファンが高齢じゃないので余命何か月、ということはありません。ヨンジュンのときだけ、生きること、死ぬことについて考えさせられた時間でした。

IMXはヨンジュンなしでは語れませんが、もともとは彼のために作った会社じゃないので契約がおわってもうちはうちでやっていくのですが、、、
ヨンジュンのときは今のグンソクさんより社会的にすごかった。おかげで売り上げは登っていった。ペヨンジュンと契約してたったうりあげのベースには2年目から上向いていた他の売り上げもあったけれど、、、ヨンジュンとの契約がおわったあと、皆様が不便しないようにと無料で公式を運営つづけたり、商品は作れなくなったり、たしかに売り上げは急落しました。
会社としては厳しくなり、渋谷の事務所は300坪あり社員も78人いたのですが、、、今の二倍です。
(契約終了後)僕も寝ないで本当に頑張って仕事をしたのですが、映画に投資し失敗したり、ドラマ制作会社に投資したら戻ってこなかったり、、本当に苦しかった。3年前に会社は今やめたほうがいい、という状況、今やめないと個人の財産も食いつぶしてしまいマイナスになるという状況でした。
そのとき、つらいのでやめてもいい、とも思ったが、やめないでやっていこう、と思ったのは、応援して、サイトに来てくださる方がいて、ブロコリマガジンを定期購読してくれるヒトもいて、減ってはいてもサークルに来られるかたがいて、、、これを つらくなったからやめるっていのはダメなんじゃないかと思ったんです。 うちの社員もものすごく苦労しました。
でも 今年は久々に会計上ですが黒字になりました。

皆さんが逃げずについてきてくれたこと、ブロコリに来る人は減っては来ているが希望も少し見えてきました。
10年目を迎え、10年やっていたら十分と個人的に思っていて、目も見えないし、白髪はないけど髪もへってるし、太ってハゲなオーソドックスな会社の社長になってきてしまったので、引退してもいいか、とも思っていました。
反面、ここでやめるのはちょっと悔しいんです。韓流という言葉は嫌いですが、ドラマからでてタレントや俳優が人気になり、つぎにKPOPが人気になり、だんだんマネーゲームになってきています。そうなると、当たり前ですが、うちの100倍くらい大きな会社とでは競争にもならない。このまま日本にいて、韓国のものを大手と競争しながら生き残っていくのか、、、しかしなんとか生き残るというのが目標の生き方は違うと思う。成功体験をさせてやれない社員は他の会社にいくべきだし、ユーザーの情に訴えるのも厚かましい。
新しい切り口はないのかと探していたのですが、、
たまたまイジュンギのファンクラブを引き受けました。今は軍隊にはいっていて本人とあったことがなかったので、8月はじめに会い、9月もあい、先日もあって、、、日本と韓国を含む全世界でのマネジメント契約を結びました。
 韓国の文化をなんとか日本で紹介したいとやってきましたが、韓国から発信すればいいじゃないかと思うようになりました。
11年目からは韓国での仕事が半分以上になる予定です。(え~という会場の悲鳴に)ここにいても毎日みなさんと会うわけじゃないんだし、、、IMXは正直に、堂々と頑張ってますと言えるような仕事をしたい。韓国に会社をおいて、日本のものを韓国に紹介するような仕事もしたいと思っている。

自分のブログに下さるコメントとのいくつかには本当に感動したり、励まされたりします。みなさんのコメントに救われています。
まったく縁のなかった日本で、全く縁のなさそうなみなさんと 7年、8年という長い期間、利害関係はちょっとはあったとしてもそれを超えて、ふつうの会社の10年はスーツ姿の取引先の人をよんで高いシャンペンで乾杯するかもしれませんが、それを、こうやってみなさんとお祝いできたこと、本当に感謝しています。
本当に小さな会社ですが、ここに、こんな遠いところまで来てくれ、何時間も使ってくれ、さらに今でも3分の2くらいの方が嬉しそうな顔をしてくれ、感謝してもしきれません。
皆さんが僕と、僕の会社の原動力です。皆さんがうちの誇り。これからも何年続くかわかりませんが、期待は裏切っても気持ちは裏切らないようにやっていきたいと思いマス。

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かなえ
私の記憶が間違いなければ、病気のお姉様を想う優しい弟さんは、毎日事務所を訪ねていらしたそうです・・・(涙)余談ですが、私の母も天国で冬ソナ裏話をヨンハ君から聞いてるかな~・・・オンマ~~~~~~~~~ 2011/12/11 10:00
 
 

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